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画面をタップ、画面をスワイプ

毎朝寝起きのぼんやりした頭で、まだはっきりと焦点の合わない、そのにじむような視界の中で、または会社に向かう電車の中、ヘッドフォンとの組み合わせで社会と個人の間に完璧な「壁」を作りながら、あるいはお昼休みに「ひとりにさせて」と言わんばかりに、どこかの片隅でなんだか味のしないようなお昼を食べながら、はたまた一日の終わりにソファーで寝落ちしながら、世界中で多くの人がありとあらゆる時間に何かの宗教儀式のように、無意識に画面をタップ、画面をスワイプ。

そんなことを何度か繰り返すだけでその先にある、知らず知らずのうちに誰かによって選別され組み上げられた、ある程度あなた自身のためにカスタマイズされた「情報」の集合体とも呼べる、現実でもあり非現実でもある世界が広がりはじめ、繋がったような感覚になれるようになってからずいぶんと時間が経った気がするが…いや、まて、そんなことはない。それはまだ10年とか20年とかほどの時間軸の中の話だ。

A decade

ひと口に10年と言っても時代の変化は速い。それはけしていまこのデジタル社会の中で始まったことではない。10年あればスイングからビ・バップへ、そしてビ・バップからモダンへと音楽、ジャズの世界だって急激に変化したではないか。いや、待て、待て。僕はデューク・エリントンの功績や、レスター・ヤングのおんぼろなテナーサックスから語られるその音色について、はたまたチャーリー・パーカーの鋭く自由な跳躍、ジョン・コルトーレーンの生真面目な科学者を思わせる、情緒的かつ幾何学的な音階について、そんな彼らがどのようにジャズを急速に発展させたかという、そんなことを書きたいのではない。

僕が一日のどこかのタイミングでけしてそんなに新しくもないiphoneを操作し – 場合によっては一日に何度でも - SNSのアイコンをタップし、画面を下から上に向かってスワイプすればそこには友人から知人、そうでない人、物、事にまつわるストーリーが「待ってました!」と言わんばかりに溢れ出してくる。そこには「あんな場所に行った」「こんなことをした」「何を食べた」「誰と一緒だった」という各種情報に溢れているし、それは概ね人を傷つけるものではない。もちろん僕にだって、いや、誰にだってその一日の時間は平等に与えられているし、僕自身ももちろん何もしなかった一日というものは存在しない。

しかしそのタップやスワイプを通じて繋がる世界の中においては、そこに自分の存在がなくとも世の中が回っていく、回っている様子を無機質な上下のスワイプという行為の中に確かめる度に、僕はある種の虚無感と少しの嫉妬を感じないわけにはいかないのだ。過疎化した街のドーナツ化した忘れ去られた旧市街の中心にぽつんとひとり放置され、どうしたらも良いのかもわからず、ただただ佇んでいるような自分の姿をそこに想像する。それと同時に僕はこの僕をそうして旧市街の真ん中にひとり放置し、一斉にいなくなったと錯覚させてくれた人たち – もちろんそんなことはあるはずもなく、単にそれは僕自身の妄想でしかない - を激しく妬んでいる自分に気づく。

全くもって嫌な感情だ。

そこにある世界はあくまで物事に一端であり、その世界にその日を象徴的に陳列するためにはそれがフィクションにせよ、ノンフィクションにせよ、手を加えられたり、磨きがかけられたりしながら情報は更新され、その世界を片方で消費し、片方で構築し続けていくのだ。

ある程度そんな世界の在り様をわかっていたとしても、じゅうぶんに上手に付き合っているだろうと誰かにそう言われたとしても、やはり、例えばそう、行楽日和のよく晴れた現実的な週末の夕方のような時間帯には、タップやスワイプに占領されたしまった世界の中の片隅で、僕は誰もいない旧市街の中に立ち、小さなチクチクとした指先のささくれや、指先に刺さったまま取れない小さな小さな棘のような空虚な気持ちと、またこれもすぐに忘れてしまうようなチリチリと燃え残った種火のような嫉妬を抱え、叫ぶことはしなくとも、叫んでもかき消されてしまうとしても、声にならない声で何かを大声で叫んでいるのだ。

どうしてどこにも行けないの?

と。

そんな気持ちを鎮めるためか、忘れた気になるためか今日もビールに酔わせてもらうのかもしれない。

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