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能登の大海を泳いでみた note雑感

 ある愛するnoterさんの過去記事とコメント欄を拝読させて頂いた時、ある方の名前が視界に入り、違和感を感じた。

 スキを下さった方が更新をされていらっしゃらない時は、出来る限り過去記事を拝読させて頂くことにしている。

 何故、違和感を感じたかというと、その方のコメント欄に、昨年亡くなられたnoterさんのコメントを認めたのだ。親しく交流をさせて頂いている方々のコメント欄では、その方からコメントを頻繁に見掛けていた。

 私は、友達の友達はまた友達感覚が好きなのである。しかし、その方からはケミストリーが合わないと感じられたのか、海外生活の記事などは目にしたくはなかったのか、私とはまったく交流がなかった。

 しかし、そんな彼女から、たったの一度だけスキを頂いたことがある。

 それは、私の記事へのスキではなく、私が、共通の知り合いのNoterさんへ残したコメントへスキを頂いたのである。

 コメントへのスキとは言え、彼女にスキを頂いたその時の心情を小説に例えるとすれば、ベルサイユ宮殿にてマリー・アントワネット王妃に一回だけ声を掛けて頂いたデュパリー婦人の心情であろうか。とにかく嬉しかった。そのスキだけが彼女との最初で最後の交流ではあった。それでも、彼女が亡くなられたというお知らせを噂で伺った時は呆然とした。

 noteは一つのSNSポータルと一言で片づけてしまえばそれまでだが、この中で、人は生きて、朽ちて、勇気を頂いて、同情して、同情されて、共感して、共感されて、失望して、失望されて、慰めて、慰められる。

 すなわち、ここはバーチャルの世界ではあるが、まさに生身の人間世界でもあるのだ。

 しかし、最近はChatGPTのAIデバイス等も台頭して来た。近い将来、コミュニケートをしている相手が生身の人間なのかAIなのかが判別出来なくなる時も到来するであろう。

 一度、奇妙なコメントを戴いた。何度読んでみても意味がよくわからない。いくら私の読解力が乏しいとは言っても、とにかくわからない。そこで気が付いた、これはもしかしたらAI補助によるコメントではなかろうか、と。

 それは非常に尊敬をしている方からのコメントだったため、最初は驚いたが、そのうち、「そうか、この方はコメントにおいてもAI補助を実践されていらっしゃるのだ。あっぱれ、この方は常に先を見ているのだ」、と逆に感嘆してしまった。

 私は、超絶アナログ人間なので、皆様においては、今しばらく、AI補助なしの私の誤字脱字満載の手動コメントにお付き合いをお願いさせて頂こう。

 さて、このコメントというものは、読解力のない私にとっては時々鬼門になる危険もある。コメントに関して大口論になったことが(幸い)一度だけある。

 コメントを残すという行為は、特に、私のように日本語力が劣化している人間にとっては、非常に勇気のいるもので時間の掛かるものである。その貴重な時間を掛けて、人様の書かれた記事を誹謗中傷をさせて頂くほど人生は長くない。

 称賛するつもりで残したコメントが「慇懃な言葉で馬鹿にしている。貴方は偽善者だ」、という非難コメントを産んだことがあるのだ。称賛の言葉がどのように正反対の解釈をされたのかは理解不能だったが、どう釈明しても、議論はさらに悪化するのみであった。

 ちなみに、何かに対して物申す必要が生じれば、私の場合は、慇懃な言葉ではなく、かなりストレートに告げる。

 私は偽善者なのか?どうせなら、そのような結論に至った経緯まで説明をして頂きたかったところであるが。かつて、偽善者と面と向かって言われたことはないが、人は誰でも多かれ少なれ偽善的なところがあるのではないであろうか、などと哲学をし始めてしまった。noteには優しい方が多く、元気を頂けるようなコメントが多い。しかし、ネガティブコメントを戴くと、自分を真摯に見つめ直す機会になり、それはそれで建設的なのかもしれない。

 しかし、この大規模なネット世界でコメントのトラブルになったことが、たった一回だけであるということは、やはりnote界にいらっしゃる方々のSNSリテラシーは比較的高いのではなかろうか。
 


 ところで、日頃、気になっていたことがある。記事未読でフォローをして下さる方々の論理である。

 私にとってフォローとは、「貴方に付いてゆきますよ」、という意味である。私の場合、読み書きの速度が非常に遅く、皆様のところに訪問をさせて頂ける頻度も低いので、フォローバックに関しては非常に慎重になっている。フォローはしたけれど訪問頻度が非常に低い、というような無責任なことはしたくない。しかし、弊記事を御高覧頂いた全ての方の玉稿は、せめて最新の数記事だけでも、時間は経ってしまうかもしれないが、リスペクトを以て拝読させて頂いているつもりである(同意出来ないものと、政治色の強いものと、誹謗中傷系と、スポーツ系と理解不可能なもの以外)。

 よって、私にとっては、記事未読のフォローと言う事象が理解不能なのである。アナログ人間なのでSNSの常識に付いて行けないのだけなのかもしれないが。



 しかし、やはり咀嚼出来なかったため、先週、思い切って、未読フォローをして下さった方の一人の記事にコメントを残させて頂いた。

 「困ります」、と。

 返答が無かったので、怒らせたのかと案じたが、次の日、その方からハートが13個付いていた。最初は、逆ギレの末の嫌味かとも訝ったが、ハートの付けられた時間の間隔を見たら、短い記事の時は2分、長い記事の時は5分間隔が空いていた。

 今度はこちらが恐縮してしまい、お礼のコメントを述べた。
 すると、その方は「面白かったので一気読みしてしまった」、と仰って下さった。さらに、読んでいないと書けないような感想も述べて下さったので、実際に御高覧して下さったと思われる。

 未読フォローをして下さる方は、まったく私にとってはストレンジャーのようにも感じられていたのだが、ここに人間の温かみが感じられた瞬間であった。

 SNSの素人なりに、未読フォローをする方々の論理に関して思索してみた。何故、それほどフォロワー数を必要とするのか。

 例えば、フォロワーが一人もいない人の完璧な学術的記事よりも、フォロー5000人の絵文字満載の記事の方が読まれるからであろうか。

 フォロワーが一人もいない方の記事にも立派なものが多く存在する。フォロワーが少ない、面識がない人の記事は読まない、そのようなSNSの風潮がフォロワー数至上主義のような風潮を産みだした原因の一つであろうか。
 

 SNSは奥深い、SNSと名の付くものは、note以外は極力回避しているが、この世界にドップリと浸かるにはそれなりの覚悟が必要になってくる。 


 私も能登の海においては、そろそろ古株になりつつある。

 当初から、常に私の記事を訪問して下さった方が、前回初めて不在になられていた。「ブルータス、お前もか」の如く寂寥感を覚えた。

 他にも、頻繁に交流させて頂いていた方が数か月間も投稿をしていらっしゃらないことに気が付いた。そんなことがあると、私もそろそろ潮時かな、などと感じてしまうこともあるが、私はもうしばらく大好きな皆様と一緒に能登の海にてプカプカと泳がせて頂く所存である。


 Last but not least

condolences to the people who lived up the note to its end

and to the

person who cared


 

記 サムネイルは能登ではなく我が家の前です。


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