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【日本的組織開発論】『失敗の本質』に見る日本軍の集団主義的傾向と河合隼雄の「場の論理」

『失敗の本質』を再読した。先日のnoteで触れた河合隼雄「場の論理」に関連して、さらに思考を深めるために、何かヒントが得られるのではないか、と思ってのことだ。

河合の「場の論理」とは、「与えられた「場」の平衡状態の維持にもっとも高い倫理性を与えるもの」であった。「場の中に「いれてもらっている」かぎり、善悪の判断を超えてまで救済の手が差しのべられるが、場の外にいるものは「赤の他人」であり、それに対しては何をしても構わない」という。

では、『失敗の本質』ではどのようなことが述べられているのだろうか。本書では、ノモンハンから沖縄までの6つの敗戦に表出した日本軍の失敗の要因を戦略という組織という2つの次元から検討を加えている。その要約は、以下のようになる。日本軍の戦略目的は不明確で、短期決戦を志向し、戦略そのものの構築は帰納的になされ、結果戦略オプションは狭くなる。戦略目的が不明確で、短期決戦志向は、バランスのとれた技術体系の構築を難しくした。そうした戦略的特徴は、組織の目標と構造の変革を行うダブル・ループ学習を難しくする。そして、人的ネットワークを中心とする集団主義的な組織文化においては、人間関係が重視され、結果的に、成果ではなく動機やスタンスが評価されるに至ったという。

読者もお気づきであるとおり、集団主義的な組織文化によって関係性が重視される、という『失敗の本質』の内容は、河合隼雄の「場の論理」と接続ができそうである。この記事では、日本の集団主義的文化を深堀りながら、日本における新しい組織論の構築に向けて筆を進めていきたいと思う。

『失敗の本質』では「集団主義」について、「個人の存在を認めず、集団への奉仕と没入とを最高の価値基準とするという意味ではない…組織とメンバーとの共生を志向するために、人間と人間との間の関係(対人関係)それ自体が最も価値あるものとされる…そこで重視されるのは、組織目標と目標達成手段の合理的、体系的な形成・選択よりも、組織メンバー間の「間柄」に対する配慮である」と説明している。つまり、陸海軍、両軍において下剋上的動きが散見され、決して役職が低い人間が一方的に組織に奉仕している、あるいは、それを強制されるような集団主義である訳ではない。

職場に置き換えるとどうだろうか。部下は上司や組織に滅私奉公をしたり、それを強いられている訳ではなく、上司は部下の下剋上的な動きに対して、関係性を考慮した配慮がなされる。自分の右腕として信頼している部下から突き上げがあった際に、関係性が壊れないように、意見の不一致はあれど、妥協したりする。そして、その妥協こそが、合理的な判断や意思決定を不可能にしてしまう。現代の組織でも容易に見られる光景ではないだろうか。

ここまでの議論を河合の「場の論理」と接続させてみよう。「与えられた「場」の平衡状態の維持」はすなわち「人間と人間との間の関係(対人関係)それ自体が最も価値あるもの」とすることであり、その関係性を重視するという「場の中に「いれてもらっている」かぎり、善悪の判断を超えてまで救済の手が差しのべられ」ることによって、結果的に、成果ではなく動機やスタンスが評価されるといったことが起こる。『失敗の本質』によれば、成果だけでなく失敗に対する責任追及も動機やスタンスが考慮され曖昧にされたという。

こう分析していくと暗澹たる気持ちにもなるが、数々の組織を支援してきたぼくとしても、実感として否定しきれない。むしろ、首肯を促す結論でもある。では、組織開発に携わるぼくに何ができるのか。

河合の場の論理しかり、『失敗の本質』の集団主義しかり、日本の組織特性を日本の文化的側面から着目してきた。とはいえ、事はそんなに単純ではなさそうである。

Googleで「日本の集団主義」と検索すると、文化的側面としての日本の集団主義への反論も多く存在しているようである。ざっと、情報収集をした感じでは、心理学的、教育学的、経済学的においても、実証研究によって有意に日本が集団主義であるとはいえないということがわかっているのだという。日本的組織開発論の探究の道のりはまだまだ長そうである。


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