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【京都からだ研究室】韓氏意拳から学ぶ"自然観"①(22/10/15)

(100円有料設定ですが全文無料でお読みいただけます)

後藤サヤカさん昨年2021年から主宰している、"自身のからだと心そして魂の調和をとりもどし、自身を活かすための"からだ・こころ・わたしを探究するコミュニティ"、「京都からだ研究室」

10月、11月の2回にわたって行われる後期ワークショップには、小関勲さん(バランストレーナー、"ヒモトレ"創案者、韓氏意拳中級教練)をお招きして、「韓氏意拳から学ぶ"自然観"」をテーマに学びます。

小関先生には、今年2022年4月と5月のからだ研究室前期「分けられない身体を試みる - ヒモトレ&バランス講座」でもご指導いただきました。

小関先生が開発した「ヒモトレ」「バランスボード」の原点に、先生がライフワークとして取り組んでいらっしゃる韓氏意拳の身体感覚経験・体認がある…ということで、今年再びのご登場を大変注目しておりました。

韓氏意拳とは?

「韓氏意拳とは何か?」ということを、ひと言でいうのはとても難しい…というか不可能です。
ここでは、韓氏意拳の創始人、韓競辰(かん・きょうしん)導師へインタビューした2016年4月のWeb記事(全3回)をリンクしておきます。

韓先生に説明を「丸投げ」というかたちにはなってしまいますし、また、中国武術の専門的なタームが出てくるところもあります。それに、お読みいただいてもおそらく分からないと思いますし、私も分かりません(笑)。

武術のあるひとつの流派の創始者が私たちと同時代に生きていて、その言葉を聴くことができる、何となれば直接会って稽古をつけていただける…というのは大変貴重なことでもあります。ひとまず参考までにお読みください。

事前学習動画

研究室参加メンバーに向けては、Facebook上に参加者限定のグループページが作られ、10月15日の第1回講座に先立って、小関先生が講座の概要についてお話してくださる事前学習動画がシェアされました。

打ち合わせの模様を事前学習動画でシェアしてくださった小関先生と研究室運営メンバー

韓氏意拳の底流にある老荘思想

動画の中で小関先生は、「"体認"を重んずる、韓氏意拳という武術の性格上、事前に何か取り組んでくる宿題というものを提示しにくいのですが…」とした上で、

「老子」を、一度読んでみてください。できれば、誰か他の人の訳に依らないで、第一章だけでも原文で読んでみてください。

と提案してくださいました。
講座当日の冒頭にも、小関先生が板書で示してくださった「老子道徳経」の第一章を、ここにも引用してみます。「韓氏意拳という武術のエッセンスが、この章にすべて入っている」と小関先生が仰る文章を、できれば音読して味わってみます。

(老子道徳経 第一章 (読み下し文))
道の道う(いう)可きは、恒(つね)の道に非ざるなり。名の名づく可きは、恒の名に非ざるなり。
無名は万物の始めなり。有名は万物の母なり。
故に恒に欲無ければ、以て其の眇(みょう)を観、恒に欲有れば、以て其の徼(あき)らかなる所を観る。
両(ふた)つの者は同じきより出で、名を異にして同じきを謂う。玄の又玄、衆眇の門なり。

『老子訳注 - 帛書「老子道徳経」(小池一郎(著)、勉誠出版) 』p.3
韓氏意拳は「武なる学」、武術であり"学問"でもあります

私はこれまで、例えば「菩提達磨によって中国に伝えられた仏教は、老荘思想によって解釈・受容されて禅となり、日本に伝わった」といった程度のざっくりした知識しかなく、このように本になったもので『老子』を読んでみたのは初めてでした。

"無為自然"といった言葉に代表される老子の思想。それは単に頭(思考)だけをひねくり回して、いわば"でっち上げた"アイデアではなく、何らかの身体感覚の経験に深く根差して出てきた思想だったのではないか…。
この講座で韓氏意拳にあらためて触れてみて、そんなことを思いました。

参考:前日に名古屋で行われたヒモトレ講座

時系列的には前後しますが、研究室講座のちょうど前日には、小関先生が名古屋にお越しになっての「ヒモトレ講座」が開催されました。

この事前学習動画の中でも、小関先生は、

「研究室にお集りの皆さんは、既にヒモトレを実践されている方も多いかと思いますが、韓氏意拳を体験してみると、"ヒモトレって、こういうことだったのか!"というのも観えてくると思います」

と仰っていました。

参考として、下記に前日10月14日に名古屋で行われたヒモトレ講座の模様を簡単にレポートした、私のFacebook投稿をリンクしておきます。特にこの京都からだ研究室の前期講座で、ヒモトレやバランスボードの実践を体験された方にとっては、韓氏意拳とヒモトレ、バランスボードの相互理解に通ずるところがあると思います。

【相関から因果へ - 小関勲先生と共に学ぶヒモトレ@名古屋】 きょう10月14日は、 飯田 正範 さんのお世話によって、 小関 勲...

Posted by 吉谷 広和 on Friday, October 14, 2022

韓氏意拳の「5つの特徴」

当日の講座は、日本韓氏意拳学会が主催する講習会のうち、会員登録していない人でもオープンで体験参加できる初級講習会の内容(形体訓練と站樁(タントウ)の一部)に沿って行われました。
ここからは、講座の中で小関先生が言葉で示してくださったいくつかの事柄から、この日の体験や気づきを振り返っていこうと思います。

韓氏意拳には、5つの特徴があるということです。

1. 型がない
2. 力を使わない
3. リズムを取らない
4. くり返さない
5. イメージしない

型がない

空手や合気道、また能や歌舞伎など、特に日本で伝えられている武術や芸能では「型稽古」を重視するものがあります。空手などでは型の演武がオリンピック種目になっていたりもしますが、韓氏意拳という武術には"型がない"とされます。

では、腕が前後に大きく振られる、形体訓練の「前擺(チェンバイ)」や「後擺(ホウバイ)」といったムーブメントを稽古するのは、一体どういうことなのか?

「これが正しい型です」というある決まった形が先に在って、そこに自分の動きを合わせていく、その形を正確にトレースするのを目的とするのではなく、腕を前後や左右に振るというような、普段誰でもしている、できている(と思っている)簡素な動きを、ある種のスクリーンのようにして、その中で起きている感覚経験を観る。
いま腕が振られている動きを私はどう感じているのか、不自然で無理な動きになっていないだろうか、自然な身体の構造やはたらきに沿ったものになっているかどうかを観ているもの…と、私は理解しています。

くり返しではない、リズムを取らない

外見上は、腕の前後左右への反復運動に見える動きでも、その内実は、その時その一瞬ごとの一回限りの出来事とも言えるかもしれません。このあたりは、特徴の3. と4. の「リズムを取らない」「くり返さない」に関わるところです。

この日の講座を体験した受講者さんからも、「先生に手を取ってもらいながらだと出来る時もあるけれど、ひとりだとそれを再現できない」という声がありました。とてもよいポイントを突いていると思います。

ここは言葉だけでは説明も理解も難しいところですが、先生が再現しているように見える動きでも、実際はその時その場の"いま、いま"の一回ごとの現れだということだと思います。

小関先生が例に挙げてくださったことでいうと、

「皆さん普段ふつうに歩いている時には"イチ、ニ、イチ、ニ"とリズムを取っては歩いてないですよね。そこでは"ただ歩く"ということが起きているだけだと思います」

「①腕が下りている→②腕が上がる」といった"1から2へ"ではなく、常にワンモーション、ひとつの動きの中に前後や左右、上下の変化がある…これも、いまこの文章を書きながら非常に表現し難いのですが、そのような理解を持っています。

参加者一人ひとりの手を取って細やかにご指導くださる小関先生

力を使わない、イメージしない

"ただ立つ"ことを中心に据えて行なう「站樁」の稽古では、小関先生に手を取ってもらいながら、腕を下から上へ上げたり、前に出ている手を手前に寄せたりといった簡単な動きをします。

私の手を取っている小関先生が、「そうそう、その感じその感じ!」と言ってくださっている最中の感覚は、まるで腕が消えてなくなったかのような感じで、自分の力で腕を上げている感覚や、自分でやっている実感がないので、拠りどころになるものや、当てにできるものが何もないところに宙吊りにされるようで、「ほんとうにこれでいいのかな?」と不安にもなってきます。
その"どうにも寄る辺ない感覚"のところに、私や私の身体のほんとうに「自由で自然な在り様」があるのだと感じます。

ここでも小関先生は「目の前の机に置いてあるリンゴを取る」という、何ということもない動作を例に挙げながら、

「リンゴを取る」「壁にある電気のスイッチを消しにいく」という動きは、「リンゴを取る方法」「スイッチを消しに手を伸ばす方法」を教わった上でできるようになったわけではないですよね。
目の前にあるリンゴをほんとうに取るという必然性が、自然な運動を生みます。

というヒントをくださいます。

ということは、「目の前のリンゴをただ取りにいって取れる人ならだれでも、原理的には韓氏意拳ができる」ということになるのでしょうか?

そこに、「ただする」、韓氏意拳の四大原則のうちの「一形一意」のポイントがあると思います…と、文字にして書くのは簡単なのですが、その感覚が身について実際に表現できるのとは、やはり違います。

自分が腕力を使って腕を上げようとすると、触れてくれている先生の手と必ずぶつかって、上げようとしている手が止まることになります。この、ぶつかって引っかかっているところに「私(自我)がいる」のを見たい、確認したいのだと思うのです。

できなかったら悔しいし、うまくいったらうまくいったで、つかみどころのない感覚に戸惑うのですが、こういった「既に知っている私ではない、様々な私」と刻々に出会っていくところも、韓氏意拳のお稽古の難しさであり、また味わい・醍醐味だと思っています。

「イメージを使わない」という点では、以前の稽古でよい感触だと感じたことを覚えておいて、それを再現しようとしても、それすら当てにできない、そういう意味では厳しい稽古かと思います。

いまここの感じを"拡大する"

韓氏意拳という一つの武術の教伝でも、日本に10人いる教練の先生方それぞれで、教え方、伝える時の言葉の使い方が、まったく異なります。10人それぞれの身体が違えば見ている世界も違うので、同じ韓氏意拳という武術の捉え方・表現の仕方が違ってくるのは当然のことですが、小関先生の教え方で特徴的だと思うのは、形体訓練でも站樁でも、

普通に何気なく立っている時の、そのリラックスしてニュートラルな感じを"拡大"していきます

という言い方です。

言葉というのは、ある身体感覚的な体験の全体を断片に切り取って、矮小化してしまう危険性を原理的に孕んでいるのとともに、体感・体解・体認に根差した言葉は、その用い方ひとつで身体のありようを大きく変容させる力もまた持っています。
普段は別の先生に定期的に習っていて、こうしてたまに小関先生のお稽古を体験して、言葉によって導かれると、まったく違う角度から韓氏意拳の風光が開けてくる経験でした。

表現 - express

小関先生が板書に書いてくださった「表現」という言い方が気に入っています。

「意」を意識や思考を交えずに直接表現する

表現は英語で「express」。語源的には"外へ押し出す、押し広げる"という意味があります。

また、韓氏意拳の「意」とは何か?
小関先生によると「運動の起源」ということ。取りにいくリンゴや、消しにいくスイッチは具体的にどこにあるかというと、私の外側にある。
韓氏意拳は武術である以上、私の目の前に立って相対している"敵"とのやり取りになるわけです。

腕が左右に振れたり、立ったりしゃがんだり…と、外から見て身体のフォルムが違っているように見えても、それはすべて「いま、ここの全体的な感じ」や、外側にあるものとの相関関係の表現のヴァリエーションといえるかもしれません。

また、上でfacebook投稿を貼り付けた「ヒモトレ」との関連で言うと、この「いま、ここのニュートラルな感じ」、目に見えて手で触れられる以外の身体性を上手に浮かび上がらせて見せて(観せて)くれるのがヒモトレである…と、「韓氏意拳から眺めたヒモトレ」ということで、あらためて「ヒモトレ、実によくできている!」と感心しました。

做自己 - Be Myself

この日の講座でも小関先生が仰っていた言葉で、韓氏意拳の講習会で他の先生方もよく使う言葉で「做自己」というものがあります。

「做」の字は、日本語だと「見做す(みなす)」という言葉に使われる、訓読みだと「なす、つくる、する」という意味の言葉です。
これに"自己"がついた做自己を、英語に翻訳してみると、

Be Myself (自分自身になる)

となります。
これは、自己肯定感(…ほんとうはこういう言葉は好きでないから使いたくはないのですが、あえて)が何かにつけて低くなりがちなタイプの私にとっては、

韓氏意拳は「自分自身になる道」だったんだ!

…と、とても嬉しい気持ちになる、希望が持てる気づきでした。

仏教でも、ゴータマ・ブッダの最後の教えとして知られている「自灯明、法灯明」という言葉があります。
迷ったら、いつでもそこにあって、いつでもまっさらに、何度でも感じ直せる自分の感覚を頼りに、他方、その自分の感覚というものを独善的に振りかざすことなく、自らもその中に否応なく含まれる大いなる自然のはたらき(法)に従って歩む道ゆきに、「"私のフリ"をしているのをやめた、過大評価も過小評価もしない、等身大の自分自身」が顕われてくる。

どこまでも自分自身になってゆく。自分自身がどこまでも深まり、かつ拡がってゆくお稽古に出会うことができたご縁が、心から有り難く思えました。

観察者から体験者へ

上でも書いたように、このお稽古では、先生に「それです、その感じ!」と言われている時の腕の動きを、「どうしても見たくなる自分、見て納得したがっている自分」と出会うことになります。そうなると、観察している自分と観察対象が離れてしまう。

"腕を上げるでもなく上がっている"という現象の起こりと一枚になりながらも、その現象が起きているのをちゃんと自覚できてもいる、不思議な感覚があります。

既知から未知へ

このお稽古では、目に見えていて手で触れれば感じることのできる身体だけが「私、私の身体」ではない…という気づきがあります。

禅の教えで「指月の喩え」というものがあります。観るべき月は、指先のところにあるのではなくて、そこに何があるか未だ知らない、分からない「指先の先」にある。

(ブルース・リーのカンフー映画、あの有名な " Don't think, Feel! " のシーンのすぐ後に、指月の喩えを引用して少年を導きます)

目で見て見えるものを見る見方で、目には見えないものを見ようとすると、テレビの電波が混線するような事態になるのではないか。それで、観るべき月が見えなくなってしまう…。まったく新しいものの見方と出会うことになります。

災い転じて福となす講座

この日の講座は、当初サヤカさんが手配してくれた京都市内のある公共施設で予定通りスタートしたものの、途中で別の部屋でエアコンの改修工事が始まり、小関先生の声が全く聴こえなくなるほどの騒音が発生し始めました。

そこで、サヤカさんがあらためて施設の管理事務所と急遽かけあってくださり、施設に隣接する保育園の体育館の広い空間を使わせていただけることとなり、結果的には実にのびのびとお稽古することができました。

"研究室史上最大の不測の事態"に適切に対応してくださった、サヤカさんはじめ運営メンバーの皆さん、ほんとうにご苦労さまでした、ありがとうございました!

参加者の皆さんのほとんどが、この日が初めての韓氏意拳体験でしたが、スタイルは異なれども何らかの形でソマティックな(身心相関的な)活動に携わっていたり、学びを続けていたりする方たちばかりだったので、小関先生が提示してくださることを、皆さんそれぞれなりに柔軟に吸収していらっしゃった様子が、外目から見てもよく分かりました。

講座終了後には、サヤカさんと「これがもし、身体感覚を探究することに興味も関心もない人が、いきなり韓氏意拳を初めて体験したとなったら、小関先生も受講者の皆さんもお互いに、ここまで意欲的に取り組むお稽古になったのかどうか…」と話し合っていたところでした。

入江先生の存在はほんとうに心強かったです

また、今回は指導者としてではなく、ひとりの受講者としてご参加くださった、日本韓氏意拳学会公認の"中級教練"のお一人、入江宏和先生も、この日の講座について、

「気が格別に違っていた」

と振り返っておられました。入江先生はじめ受講者の皆さん、ありがとうございました。次回11月19日の講座で、またお稽古をご一緒できますのを愉しみにしております!

小関先生の手を直接取らせていただきながら指導を受ける、講座進行役の赤野さん

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