見出し画像

【京都からだ研究室】"分けられない"身体を試みる - 小関勲さんのヒモトレ講座(22/04/16)

(100円有料設定ですが、全文無料にてお読みいただけます)

後藤サヤカさん昨年2021年から立ち上げた身体探究のコミュニティ、京都からだ研究室

2シーズン目の今年2022年は、ゲスト講師に小関勲こせきいさおさん(バランストレーナー、"ヒモトレ"創案者)をお迎えしての「ヒモトレ講座」でスタートしました(2022年4月16日)。

尾形光琳・乾山ゆかりの泉妙院

今回の講座の会場は、京都市上京区にある日蓮宗大本山妙顕寺の塔頭寺院「泉妙院せんみょういん」。小さなお寺ですが、ここは江戸中期の画家・工芸家、尾形光琳と乾山のお墓がある、たいへん由緒ある場所です。

この研究室で、ゲスト講師の先生方やサヤカさんたちと共に取り組んでいる、

「私という存在を生かしているいのちの在り様を学び、それがよりイキイキと輝くように活かす工夫の探究」

は、ある意味「いのちを生かして活かすアート(技芸)」と言えるものなのではないか。もっと言えば、

生きることそのものが芸術

なのではないか…と、昨年からこの研究室に帯同している私は思っています。その意味で、この研究室の今回(…前回2021年度後期も泉妙院でした)の会場が、日本を代表する芸術家・工芸家の菩提寺のお寺であったことには、深いご縁を感じないわけにはいきませんでした。
場を快く提供してくださった泉妙院さん、ありがとうございました。

尾形家の菩提所である由緒を記したプレート。

ヒモトレと私

私が初めて小関先生とお会いしてヒモトレを知ったのは、2016年に参加した「藤田一照仏教塾"仏教的人生学科 一照研究室"」の特別イベントとして行われた、小関先生と長沼敬憲さん(サイエンスライター)と一照さんの公開鼎談の場でのことでした。
このnote記事のヘッダー画像に使ったのは、その日の懇親会の場で小関先生から直接ヒモトレの手ほどきを受けた貴重な体験の写真。
今回のからだ研究室の写真ではないのですが、記事制作者の特権で、このキャッチーでインパクトある、身体を張った画像をヘッダーに使わせていただきました(笑)。

烏帽子巻。飲み物の味わいがちょっと違う。喉の通りもいい感じ。

以来、日常的にヒモトレを実践しているのですが、こうして久しぶりに講座で小関さんと、それから参加者の皆さんと一緒に学び合うことで、自分一人で試みているだけでは意外になかなか気づけていなかった様々なことに、ほんとうにたくさん気づかされました。

この講座を通じて特に感じられたのは、身体の中に濃く感じられるところと薄いところの差が、ヒモをゆるく巻くことで満遍なく良い塩梅になる様子でした。その他、今回の講座で感じたこと、気づいたこと、体験から想起されたことなどを、必ずしも講座の時系列順ではないかもしれませんが、思い出すままにこの記事にまとめていこうと思います。

言語的理解と感覚的経験

小関先生のヒモトレ講座には、これまでに何度か参加させていただいたことがありますが、小関先生が上手に愉しく編集してくださった、ヒモトレプレゼン用PowerPointを、実際にヒモを用いての実践に先駆けて必ず見せてくださいます。

このパワポは、知的障害のある子どもの療育や高齢者介護の現場、またオリンピック出場経験もあるほどのハイレベルなトップアスリート、プロスポーツ選手、武術・格闘家、音楽家、芸能人…など、実に幅広くヒモトレが実践されている様子を見せてくださるスライドで構成されています。

その中で特に私にとって印象的だったのは、ヴァイオリンやピアノのプロ演奏家のヒモトレ実践。ヒモをつけて弾くと、表現がとても繊細で、強弱がきめ細かくなったのです。スクリーンにパワポを映し出すプロジェクターの小さなスピーカーから聴いても、その変化・違いははっきりと分かります。それは、音楽を聴くのにCDやストリーミングなどのデジタル音源からアナログレコードに変えた時に感じるなめらかさ・きめ細やかさでした。

ヒモトレの特徴の一つは「巻くだけ」。ヒモをゆるーくただ巻くだけで、あとは普段通りの日常を過ごすだけで、身体が自ずと整い(調い)を見つけてくれる。
ここでは、ヒモを身にまとった身体の感覚を主体的に感じ、体験・体認することが重んじられるのですが、しかし、ただ巻くだけといっても、その"身体を感じる経験"がまだ少ない時には、ヒモが反映してくれる身体を観るのはなかなか難しいこともあると思います。

小関先生の講座では、

・身体感覚経験の"体認"
言葉で、あるいは写真や動画などのイメージを通じて、体認へのヴィジョンを理解すること

このどちらも疎かにすることなく大切にしています。

光吉先生が気になる!

パワポを見せていただきながらの小関先生の解説のお話、その語り口もとてもおもしろく、「良い先生は"脱線話"がおもしろい」といいますが、今回の講座の1週間ほど前に、武術家の光岡英稔さんや甲野善紀さん、精神科医の名越康文さんらを交えた「身体のことを知ってゆく会」というイベントを小関さんが東京で開催した時のことをお話してくださいました。

その催しには、光吉俊二(みつよし・しゅんじ)さん(東京大学大学院 工学系研究科 特任准教授)が登壇されて、大変興味深い講演と実践をなさったとのこと。「これを話し出すと終わらなくなるんで(笑)」と言いながら、話したくて話したくてたまらなそうにしている小関先生の様子が愉しかったです(笑)。
小関先生の愉しいお話を聴いて、私も光吉先生のことが知りたくなったので、光吉先生がいま考えていらっしゃることが分かりやすい記事を、下にリンクしておきます。


畢竟依を帰命せよ

ヒモトレと一般的なトレーニングとの違い(優劣関係ではなく)を理解するための要点。ふつう一般的に考えられているトレーニングは、

弱いから、強くする。
少ないから、増やす。
ないから、付け加える。

…という背景があると思います。もちろん、時と場合に応じてこういったことを主眼に置いたトレーニングが必要なことはあります。
一方、ヒモトレが前提にするのは「からだは本来健やかに整っている、整おうとしている」

この"整いに向かっている"というのが、私の中でとても深く響きました。
ここで私には、浄土真宗宗祖・親鸞聖人の「浄土和讃」に書かれている、

畢竟依ひっきょうえ帰命きみょうせよ」

という言葉が想起されました。

「いのちに帰る」。素晴らしい言語表現ですね。
究極の依りどころである根源的な全きいのちの働きに"帰っていく"。これが現代的な身体性のままではなかなか観にくいのではないでしょうか。ヒモトレはそこのところを上手に、スクリーンに投影するように観やすくしてくれます。
スクリーンに映し出すのだけれど、それは自分の向こう側に見えているのでなくて…。自分のからだの本来の働きを「主観的でも客観的でもない見方」で観せてくれるとでもいうのでしょうか。言葉でなかなか表現し難いですが…。


先人たちのヒモトレ的智慧

今回の講座では解説はなかったのですが、例えば様々な民族的タトゥーやボディペインティングの文化、また、アイヌの人たちの着物のうずまき模様なども、本来のからだの働き、いのちの働きにつながる、アクセスしやすくなる機能を担ってのものかもしれませんね。

古(いにしえ)の人たちは、小関先生がヒモトレを通じて伝えてくださる本質を、ごく普通の感覚体験として知っていたのではないでしょうか。ヒモトレを上手に工夫して用いれば、そのような「古の身体観」ともつながることができるかもしれません。


頑張れる気持ちは身体の整いから

実際にヒモを使っての実践編では、ヒモの"ピン!"と張られたテンションに身体を預けながら動く"運動編"と、おへそ周りや"タスキ掛け"などゆるくヒモを身にまとった時の変化を味わう"常備編"の、2つの側面から試みました。

このうち、ヒモをゆるく巻いて日常を過ごす"常備編"では、巻いた時と外した時とで、押された時の身体の強さや、また「先端が尖ったものを目の前に突き付けられる」というような危険な場面での感情面でも、どんな違いが感じられるかを2人一組のペアワークで実修しました。

押されても倒れないように「よし頑張るぞ!」という気持ちや、鋭い刃物を向けられても怖くない気持ちも、単純に気持ちだけでは頑張れないし、安心感や勇気も出ない。そこには「整っている身体」、その感覚という裏付けがなければ。その辺りもヒモトレが上手に教えて観せてくれました。

骨盤周りに巻いていたヒモを取ると、横から押されて崩れるサヤカさん。

教え学び合う場

中国武術「韓氏意拳」の中級教練でもある小関先生ご指導の今回の講座には、同じく韓氏意拳の入江宏和教練も、受講者の一人として参加されていました。手や腕をヒモの張り(テンション)に預けつつも、指先までの気の通りまで失わないようにと入江先生に教わりました。"指先から動く"をいつも習う、意拳のお稽古会のようでした。
小関先生から一方的に教わるだけでなく、参加者がお互いに教え学び合う場の雰囲気がとても素敵でした!

入江先生は「場の気が澄んでいた」と仰ってくださいました

"ヒモありき"ではない。あなたの身体が主役

ヒモトレは、本来のからだの有り様を"伝えてくれる、観せてくれるきっかけ"というだけで、ヒモがなければできないのではないことも小関先生は伝えてくださいます。
昨今のコロナ禍状況について話題にすることは、時にセンシティブなことではあると思いますが、このいまの時代環境状況で、私自身も含めて、今の人たちは自分で自分の身体を感じられないことがあぶり出されているように感じています。
身体の違和感や無理に自分で気づければ、修正できたり方向性を変えることもできる。小関先生も「まず自分で試してみる、感じてみる」主体性をとても大切にしておられました。

また、ヒモを使うことで身体がより動けるようになったり、呼吸が楽になったり、声が通るようになったり、痛みが軽減されたり…といったことはあくまでも「結果に過ぎない」とも小関先生は強調します。
結果を求めてヒモトレを使いだすと、本質からどんどん離れることになってしまう…。「こうすれば、こうなる」という理屈で、それこそ"分かりやすく"理解を求めるのが人情ではありますが、そういう理屈を少しの間手放して、ヒモがある時の感じ、ない時の感じをそれぞれ趣深く味わって、変化の中に佇んでみる、そのプロセスそのものがヒモトレと言えるでしょう。

分けられない身体

この講座のテーマは「"分けられない"身体を試みる」
私は坐禅や瞑想に日常的に取り組んでいるのですが、身体の力を抜いて、くつろいで坐っているようでいて、どうしても骨盤や背骨の「操作」に走ってしまっている…と、あらためて気づかされました。「こうすれば、こうなるかな?」は、なかなか手放せない…。
骨盤が立っているか、前傾/後傾しているかは、骨盤だけの問題ではなく、身体の全体性の中でとらえていかないと…というか、その全体性をもっと頼ってもいいのだと。

上記で親鸞聖人の言葉を引用しましたが、この「分けられない全体性に自らを投げ込む、頼る、任せる」ことから、「一にして全」というか、

「私が全体性だった」

というような、ある意味宗教的な本質への深まりもあるのではないか。

この講座では、私が親しくしていただいている僧侶の方たちも何人も参加していらっしゃいました。僧籍を持ちながら心理カウンセリングやマインドフルネスの指導にかかわるお仕事に就かれている方もいらっしゃいます。
彼ら/彼女らも、ヒモトレから観えてくる身体の全体性や、本源的な身体・いのちのはたらきから、宗教者としての自身の在り様に向き合うヒントを多く見出していたようでした。

未知なる私と出会わせてくれるヒモトレ

この度あらためて小関先生に直接のご指導を仰ぎながら、また、感受性豊かでそれぞれに問題意識を明確に持った、素晴らしい参加者の皆さんと共に学ぶ中で、今までに出会ったことがなかった、感じたことがなかった「新しい私」と出会ったような気がしています。

それは、今の私の"向こう側に"対象として置かれ見られるのではなく、「今の私のまま、その内側に等身大の大きさでレイヤー(層)をなしていた私」と言えるかもしれません。うーん、これもなかなか言葉にするのが難しいですね。とても感覚的なものなので。

しかし、講座が始まった時と終った後で、参加するために名古屋を出発して京都に入った時からまた地元に帰ってきた時とで、私が私のまま、前とは違う私になっている、ちょっとだけ成長した自分がいるようにも感じる…といったら大げさでしょうか。
そのあたり、参加された皆さんはどう感じましたか?

小関先生の公式チャンネルはこちら

もしこのレポートをお読みいただいて、ヒモトレや小関さんの活動にご興味を持っていただいた方へ、この下に小関さんの公式YouTubeチャンネルをリンクしておきます。興味深い動画がたくさんアップされていますので、ご覧になってみてはいかがでしょうか。

次回講座は、ヒモトレと並ぶ小関先生の活動のもう一つの柱「バランス」をテーマに、5月21日に開催されます。非常に愉しみにしております。

小関先生、サヤカさんはじめ研究室運営メンバーの皆さん、ご参加いただいた皆さん、場を提供してくださった泉妙院さん、この記事をお読みいただいた皆さんに、心から感謝いたします。ありがとうございました!

ここから先は

0字

¥ 100

【No donation requested, no donation refused. 】 もしお気が向きましたら、サポート頂けるとありがたいです。 「財法二施、功徳無量、檀波羅蜜、具足円満、乃至法界平等利益。」 (托鉢僧がお布施を頂いた時にお唱えする「施財の偈」)