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外発的動機づけと内発的動機づけという分け方に対する違和感

今回の内容は、理論や歴史をちゃんと調べた上でのものではなく、掘り下げていきたいテーマの提起のような内容となっています。

はじめに

いつ頃からか外発的動機づけと内発的動機づけという分け方に違和感を持つようになりました。

多くの人の持つ印象・インターネットで検索してよく出る定義であった場合の話です。

・外発的動機づけ
外からの刺激、働きかけによって生まれる動機づけを意味する

・内発的動機づけ
内面的な要因によって生まれる動機づけを意味する

私が違和感を持ったきっかけは、「外発的」というものの、応答しているのは私なのだから、「内面的な要因によって生まれる」ということは共通しているよね?ということでした。また、外発的動機づけの説明によく書かれている「外からの刺激」ですが、内発的動機づけにおいても時差はあれども、「外からの刺激」と無関係なものは生きている以上、本人の自覚・無自覚問わなければ存在しないと言えますよね。

となると、2つの違いは何に見出すことができるのか?という話になります。

これは、何もしないも含めた実際に取られた行動が「私の内面的な要因のどの部分が作用した応答なのか」という点ではないか?と思いました。

成人発達理論のレンズを用いてみる

この点を捉える上で参考になるのが、成人発達理論というジャンルです。この中でも最も知られているだろう理論は、人の欲求の発達に焦点を当てたアブラハム・マズローの欲求5段階説ではないでしょうか。

色は私が勝手に変えたもの

もっとも、調べてみると諸説ありそうなので、ここでは内面を捉える1つのレンズとして絶対視せず扱いたいと思います。

このレンズを用いるならば、外からの刺激に対して「自身がどの段階の欲求に基づいて応答しているのか?」となります。

通常、外発的動機づけの例と言われる、賞罰や報酬などは、このレンズでいうと外発的というより、従わなければ仕事がなくなる→金銭が得られなくなる→生活ができなくなる、といった自身の「安全」「生理的欲求」を満たすためだったり、従うことで自分の居場所があると思えるという「所属」にまつわる欲求を満たすためだったり、という内面的な要因によるものとして捉え直すことができます。

ただ、自身がどの欲求に基づいているのかについてメタ認知できていないということは成人発達のプロセスではありますので、客観的にみると「反応しているだけ」となるケースは多々あるでしょう。

ここまで書いてきた動機づけの枠組みに新しく名前をつけるとしたら何でしょうね?欲求別動機づけ?でも、それだと発達的な側面が感じられないなぁ。

外発的、内発的という表現で分けない・捉えないことの意義は?

まぁ、名前は置いておいたとしても、この欲求別動機づけ(仮)で捉えることの意義は、「主語が一貫してその人自身であること」にあると思っています。

外発的動機づけの場合、その人自身ではなく、「〜によって動かされた」という自分以外の要因に要因がむきがちであり、これは言い換えれば、その人が自身の人生のクリエイターであり、選択する力があることを、ないことにしてしまうように思うのです。言い換えると、外発的動機づけは思考停止を生みかねないなと思います。

一方で、欲求別動機づけ(仮)の場合は、設定された賞罰や報酬によって「その人が」意識・無意識問わず行動することを選んでいると捉えることになるため、当人としても「なぜ私は賞罰や報酬で行動することを選んでいるのだろう?」という問いが立ちやすくなるのではないでしょうか。

そして、この問いが生まれることで自身のメタ認知という1つの方向性の発達が促進されることにつながるでしょう。

さいごに

今回は、気になっていたことを深く調べずに軽く提起するぐらいの気軽さで書いてみました。

こういうスタイルで仮説もどんどん記事にしておけるようにしたいなぁ。

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