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【本紹介】『夢十夜/夏目漱石』第三夜 考察

こんにちは 心陽菜紫です。

久しぶりの投稿になってしまいました(汗)

今回は、夏目漱石の『夢十夜』という小品から、特に第三夜について書いていきたいと思います。
(感想を含め個人の解釈です。)


夢十夜/夏目漱石

あらすじ

こんな夢を見た。ある夜は死にかけの女が、墓の傍で待っていてくれという。またある夜は、「御前がおれを殺した」と盲目の小僧に告げられる。意識の底に眠る不安を不気味に描く。

文庫本裏表紙より引用

感想・考察

実は、夏目漱石が書いた小説の中で、初めてしっかりと最後まで読んだ作品だった。(『こころ』は途中で放棄してしまっていた、、)写真はよく見るものの、漱石がどのような文章を描くのかなじみがなかったので、今回はそんな作者の色を見るいい機会となった(謎に上から目線やん)

十の小品は全て夢のお話で現実離れした世界が広がっている。読んでいて不思議な気分になった。

最も印象に残ったのは、やはり第三夜だ。息子だという得体の知れない小僧を背負って森を歩いている主人公は、気味が悪くなり小僧を捨てて逃げようと考え始める。しかし、小僧に「御前はおれを殺した」と告げられると自分は息子を殺していたことを思い出す。

「御父さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「文化五年辰年だろう」成程文化五年辰年らしく思われた。
「御前が俺を殺したのは今から丁度百年前だね」

新潮文庫 『文鳥・夢十夜』 p.40

「我輩は猫である」という題名からユニークな小説を書く作家ということで、漱石は私の中で「気のいいおじ様」というポジションをとっていた。(写真もハンサムだし)

しかし、この第三夜のようにぞっとする恐ろしい物語も書くのだと少しばかり驚いた。

考察するとしたら、息子の重さについてとなぜこんな夢を見たのかについてだろう。

まずは息子の重さについて考えてみたい。
背負っている子供は主人公に対して次のように問いかけている

「御父さん、重いかい」と聞いた。
「重かあない」と答えると
「今に重くなるよ」と云った。

新潮文庫 『文鳥・夢十夜』 p.38

子供は六つだという。そこまで苦労せずとも背負えるのではないか。しかし、息子の告白を受けた最後にはいかにも夢の中というような描写がされている。

おれは人殺であったんだなと始めて気が附いた途端に、背中の子が急に石地蔵の様に重くなった。

新潮文庫 『文鳥・夢十夜』 p.40

罪を計る際に重い軽いを用いるように、罪悪感から背中の子が重く感じたのだろうか。確かにそれもあるが、これは夢の話である。実際に石地蔵のように重くなってつぶされてしまったのではないか。そこで、ハッ!て目覚めて「ああ、夢か」的なエンディングだと思った。

ここでなぜこのような夢を見たのかについて考えてみよう。
ぶっちゃけメタ的に考えると漱石も職業作家だったのだから「なんか面白い文章を書かなきゃ、」でできたお話かもしれない。(こんなこと言うと怒られそうだけど( ´∀` ))

しかし、ここでは、本当にこの夢を見た人がいるという‘‘妄想‘‘をしてみようと思う。

その男は本当に過去に息子を殺してしまった。息子が盲目であったことが原因かもしれないし、生活が窮困していたのかもしれない。いずれにせよ、自分の子を殺めてしまったことに対して男は、罪悪感を抱かざるを得なかった。そこで、彼の本能が「このことは忘れてしまおう」としたのではないか。

人は耐え難いストレスを得た出来事を無意識のうちに忘れてしまうことがあるらしい。実際に私も子供の頃に、友達と喧嘩をしたことを数年後まですっかり忘れていた。なんか気まずいな、くらいで。滅多に喧嘩をしてこなかった私にはあの出来事は恐ろしかったのだ。そして、数年後ひょんなことで思い出した際は、映像のようにこれでもかというほど詳細に思い出すことができた。

きっと、この話の主人公も同じなのではないか、と私は思うのだ。何年も頭の中で秘めていた不安や悲しみがこの夢によって発掘されたのだ。もちろん夢だから、ありえない描写もみられるが、ハッと目が覚めたときには実際に背中が重くなっているだろう。

私は結局、仲違いした子に謝れなかった。
この男はもうこの世にはいない息子に対する罪の意識とどう付き合っていくのだろうか。


以上、『夢十夜』より第三夜の感想と考察でした!
最後まで読んでくださりありがとうございました。
この小説を既読の方は感想や考察などをコメントしていただけると嬉しいです。

また気が向いたら読みに来てください('ω')ノ

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