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自己満足の振り返り1

私は、自分自身の「辛かった」と言う気持ちを大事にしたい。

私の子供時代は辛かったと思う。
仮に可能だとしても、子供の頃には二度と戻りたくない。
もしかしたら、父親さえいなければ私の人生は完璧だったのかもしれない。

母は割とお金に余裕のある家に生まれた。祖父と叔父は口の悪い人で、と言うより典型的な昭和の人で、馬鹿野郎だのブスだの母に言い続けたらしい。祖母のことも、とにかく怒鳴っていたそうだ。若い頃の母は、私が言うのもおかしいかもしれないが、普通に整った顔でスタイルも良かった。記憶力がとても良かった。私はこんな風にはなれないのだろうなと思いながら子供時代を過ごしてきた。一方で母の自己肯定感と自己評価は、周りがつられて嫌な気持ちになるくらい低かった。
祖父は自営業でとにかく忙しかったようだ。一緒に働いていた祖母も全く休みの与えられない生活を送っていた。無理が祟り、大病をした。長女である母は、入院している祖母、弟、妹の面倒を見て忙しく過ごすことになった。あまりの疲労で危うく高いところから落ちそうになるような場面も度々あったそうだ。
元々体も弱かった母は、家から逃げ出すために結婚という選択肢を選んだ。

父は大層しつこい人だったようだ。母は父のことを気に入っていなかったそうだが、追いかけ回されて結婚してしまったと言っていた。出会ってだが付き合い始めてだかわからないが、とにかく3ヶ月で結婚したそうだ。疲れている時は正常な判断ができないものだと思う。父は少し見ただけでも様子のおかしい人だが、それに気づけないくらい母は疲れていたのか。
新婚生活は悲しいものだったと母は言っていた。父は、「友達とお前がバカなんだって話で盛り上がるんだ」などと母を貶すのが好きだったらしい。また、母が外に出たり誰かと交流するのを極端に嫌った。料理教室に通いたいと頼んだ際も、一瞬で却下された。母は両親からとても厳しく育てられ、自分の意思やNOを伝えられない人間だったこともあり、最低限しか外出をしないようになった。一人で行けるのは、一番近くのスーパーだけ。
私を妊娠した母は、つわりがそれはそれは酷かったらしい。一切の家事が手をつけられなくなり、父はそんな母を追い出した。夜中に母の両親を呼び出して「こいつは使えねえから引き取れ」と。ちなみに、追い出す前は妊娠中の母のお腹を蹴るような振りもしていたそうだ。

私が生まれて約3年間は母の実家に住んでいた。この3年間が私の人生の中で一番幸せな時だったと思う。この頃にはもう祖父母があくせく働くこともなく、ある程度の年齢になったせいなのか、馬鹿野郎などいうこともなく穏やかだった。祖父母、母、叔父、叔母、みんな優しかった。みんな当たり前のように私を人間として尊重してくれた。
3歳の時、知らないおじさんが家にきた。「この人があなたのお父さんだ」祖母が教えてくれた。挨拶をする気にはなれなかった。どうでも良い話だが、以降しばらく、世界で一番ブサイクな人間は父親だと信じていた。

以降は、ひたすら両親の喧嘩を見続ける人生になった。
父が家で怒鳴り散らし暴れ散らす時しか基本的には関わることがなかったので、実は最近初めて、父が会話の通じない人なのだと知った。そして彼は自分のことを一切話さない。ちゃんと会社勤めをしていた頃は会社名くらいは伝えられていたが、それ以外は父に関する情報をほとんど知らない。父は朝帰りを繰り返していて、母は「あの人には女がたくさんいるのだ」とよく言っていた。酒癖も悪かったので、そのことでも母はいつも悩んでいた。今思えば、母は幼い子供に赤裸々なことを言う人だ。とはいえ、見るからに素行の良くない父だったため、言われるまでもなく私自身も色々と察していた。私は父にとって穀潰しなのだったそうだ。でも、子供は自分で働いて稼いで生きることはできない。それがとても苦しかった。幼稚園の時点で、私の将来の夢はぼんやりと、真面目に働く立派な大人になることになった。

私にとって自宅は安心できるところではなかった。4歳の時、両親はいつも通り怒鳴り合いをしていた。父は、子供も家族だから俺たちの喧嘩を見る義務があると言っていたらしい。私の心は当然ながら現実逃避を望んでいたらしく、両親がどんなことを言い合っているのかはほとんど聞いていなかった。印象に残っているのは、お風呂上がりに着替えも済んでいない中突然父に腕を掴まれ、今から電車に轢かれにいくぞ、と怒鳴られたことか。服も着ていない子供を自分の都合で振り回すのをやめろ、と思ったが、そんなことは言えなかった。あとは、父の怒りの矛先が私に向いた時はいつも、母が必死で私に覆い被さっていたのは覚えている。
夜は母と二人で寝ていたが、頻繁に父に暴力面で襲われる夢を見たため、それに合わせて体が動き、寝ながら母を殴ることをよくしてしまっていた。「痛い」とか、目にぶつけてしまった時は「見えなくなったらどうするんだ」と母に怒られた。父からの恐怖、コントロールできない状態の自分が行う行為、母に怒られる、私はどうしたら良いのだろうと絶望的な気持ちになった。無力感と申し訳なさだけだった。
一方、私は幼稚園でも各方面からいじめを受けていた。上の学年の男子からは殴る蹴るなどの暴行を受けた。いくら幼稚園生の暴行とはいえ、私の方が体格がより小さいわけだから、当然、ものすごく痛かった。先生に告げ口をしたら、共有スペースにお前みたいなやつがいくのが悪い、とのこと。これが現実なのだとある意味教えてもらった。同級生からは工作で作るものを片っ端から壊されたり、悪口を言われたり、とりあえず一通りの嫌がらせをされていた。先生に関しては、差別があからさまだった。私に非があってもなくても、私だけを怒り続けた。この時点で、私の大人を信用しないと言うスタンスが確立された。

私は私立の小学校に通うことになった。母が父に頼み込んで奇跡的にこのようなことになった。
ちなみに母は人から嫌われやすい人だ。理由はあまりよくわからない。母は悪意を持って人に接するタイプではないし、いじめられるほどとびきりの美人でもブスでもないと思う。ただなぜか、男性から挨拶をされたとかその程度の理由から、学生時代も職場でも過激ないじめを受けていたそうだ。当たり前のように、小学校でも母は標的になった。つまり、私にとっても居心地の悪い6年間が始まった。医者や、小規模ながら経営者の親が多かったので、父がただの会社員であるうちは貧乏人のレッテルを貼られたわけだった。「ステータスが違うからうちのことは関わらないで」なんて電話も来たものだ。そういった電話をかけてくる家の子どもに限って学校で話しかけてくるのは厄介だった。また母が嫌がらせをされたらたまったものではない。かといって、まともなクラスメイトは厄介者の私とは積極的に関わろうとはしなかった。後になって、あえて話しかけてくる子は実は親に反発していたことを知った。「どうでも良いことばっかに夢中になって、私のことなんか見てやしない」だって。子供は未熟なように見えて、よく考えることができることを私自身も忘れないようにしなければ。
家族内の状況は、相変わらずだった。父に言われたのか、母に言われたのか、両方から言われたのか、記憶があやふやになってしまったが「お前が悪い子だと離婚する」「児童養護施設に入れてやる」は一番頻繁に聞く言葉だった。また、母は父のことを悪魔だと言っていたので、私自身も自分を悪魔の子だと思うようになっていた。父に出会ってからずっと、父は私が嫌がることをどれだけ嫌だと言っても解放してくれなかったため、いつからか私も癇癪を起こすようになっていた。一定以上のストレスが溜まると爆発して暴れてしまう。これは今でも治らない。外ではうまくやっているけれど、こんな自分がとても情けない。このせいで一層、自分も悪魔なのだと言う気持ちが強くなったのだった。
毎日毎日、誰かに助けてほしい、助けてくれる人は現れない。ずっとそう思って過ごしていた。ニュースを見ると、残酷すぎる虐待も見かけたが、行政に助けてもらえるのは、それくらい酷い目に遭っていないといけないんだと思っていた。正直、学校が私立だったのも良くなかったのかもしれない。周りは裕福な家ばかりで、そんな中行政に頼るような問題が起きたら目立って好奇の目に晒されるのではないか、と馬鹿みたいに世間体を気にしてしまった。最近ようやく行政や警察に相談する勇気が出たのだが、この程度でなんて言われることも全くなく親身に話を聞いてくれた。有効な解決策が実際ないこともわかってしまったが、記録を残せること、誰かに話を聞いてもらえることがどんなに大きいかをやっと知ることができた。同じような環境にいる子供がいたら、我慢しないで近くのお巡りさんに話してみたら良いとは思うものの、全てが親に握られている子供にとってそれは酷なものだ。社会人になって、しっかり稼げるようになって、親に命や今後の人生を握られていないからこそ助けを求めることができる。

中学生になった私は、当然のごとくだんだんと捻くれていった。家庭内の状況は、やはり変わらずだった。小学校からの内部進学だったが、学校には全く馴染めなかった。小学校の頃、私は同級生と比べると熱心な教育は受けていなかった。母からは「誰々くんは一生懸命勉強しているよ。毎日塾で頑張っているよ」と言われていたものの、テストの点数も別に悪くないし、大手の塾に行ってるわけでもないから、周りの方がすごいのは当然でしょうがと思っていた。しかしいざ中学初めての成績表を見たら、抜群に良かった。井の中の蛙なのに、周りが馬鹿に見えるようになってしまった。母には、絶対に人に成績を知られないように固く言われていた。勉強熱心でない中で育った私の成績が良ければ、他の親たちがそれはお怒りになるだろうことは予測できたため、私も用心していた。しかし、何度か成績表を受け取るうちに、同級生に覗き込まれてしまった。案の定母はまた悪口をたくさん言われるようになった。そのことを母に責められた。私の落ち度だと思う。
中学の頃の口癖は死にたいだった。ただ言うだけの死にたい。あらゆる嫌な気持ちをその言葉に押し付けていたような感じがする。とはいえこの頃の私にはちゃんと希望があって、現実逃避のようにのめり込んだ趣味が高じて、現在はそれに関連した仕事に携わっている。おかげで現在は、仕事をしている時間がとても楽しくて幸せだ。

高校は結局外部進学を選んだ。初めての公立の学校。今までの学費があまりに高かったせいで、入学金を見て驚いてしまった。学校のある場所はとにかく遠かった。今までの学校は近所にあったため、保護者会などに母が参加することができていたが、父に外出を厳しく制限されていた母は高校に行くことができなかった。どういうことかというと、母は閉じられた世界に居続けたせいで外が怖くなり、公共交通機関に乗ることができず、自宅周辺でしか過ごすことができない状態だ。本人が無理だ怖いと言うので外出の無理強いはできない。母のことは気の毒ではあるものの、嫌われ体質の人がそばにいないことがどういうことなのかを知ることができたタイミングとなった。3年間、誰からの悪意も受けずに過ごすことができた。今思い返すと、いわゆるスクールカーストは下の方だったと感じるが、トラブルがないだけでこれだけストレスが少ないものなのかと改めて感じた。ただ、心が学校によって疲れることがないだけで、遠いその距離のせいで毎日起きているだけでも体は限界まで疲れ切った。私はとにかく体力がない。運動ももってのほか。大嫌いだった。ちなみに高校は校則も無いに等しく、賢くて人当たりが良くて、何よりおしゃれな人が多かった。みんなみたいにおしゃれを楽しみたくて、母に頼み美容院に行ったら、帰宅後父が怒鳴り叫びながら美容院に行ったことを夜通し責め立ててきた。改めて、母や私は何かを楽しんではいけないのだと学んだ。

これは言い訳でしかないが、せっかくそれなりの高校に進むことができたのに、大学受験は微塵も身が入らず、お隣の、そのお隣の県の大学への進学が決まった。みんなが一流大学に入った中自分だけが落ちこぼれたので、正直いまだに学歴コンプレックスを抱えているところがある。一方で、親元を離れて勉強やサークル、アルバイトに集中することができたのは本当に貴重な時間だった。両親の顔色を伺ったり、怒鳴り声を聞いたり、ストレスで追い詰められる時間がない日々は、時間の全てを有意義なことに使うことができた。母も「あなたには私たちから逃げる必要があった」と言っていた。また、実は元々私はとても太っていたのだが、大学の健康なのか不健康なのかわからない生活により普通に痩せている人になることができた。体が軽くなるだけで人生はだいぶ生きやすくなる。
離れて暮らしながらも、自分なりに母にはなるべく連絡を取るようにしていたつもりだった。学生生活が半分を過ぎたこと、母が酷い腰のヘルニアをやった連絡があった。母とはたまに電話をしていたのと、父も離れている分には様子のおかしい感じがしなかったので、実家に帰るのをおろそかにしてしまった。卒業・就職を機に実家に戻った際、母がヘルニアでしばらく寝たきりだったこと、その間の1ヶ月、たまに水は与えられたものの父が一度も母に食べ物を与えなかったことを初めて知った。父と母は私が直接見た限りでも酷い関係だったが、私がいない時の父はより一層凶暴性、攻撃性が増すのだと母が教えてくれた。両親2人だけの空間を作るのが怖くなった。母は走馬灯を見て、さすがにもう死ぬと思ったそうだが、奇跡なのか、今も生きている。ただ、それだけ食べずに生きると、肌や内臓など身体中が一気にボロボロになるのだそうだ。その頃から何故か、父が怒鳴ったり暴れたりすることがなくなった。「私が大人になってお金が掛からなくなったからかな」「死にそうになったことに対してさすがに何か思うところがあったかな」なんて母と言い合った。

社会人になってしばらくは問題もなく過ごすことができた。見た目にも気を遣って、難しい試験にも挑戦して、自信はほとんどないままであったものの、今までに比べるとうまく生きることができていた。母は身を挺して自分を守り、自身に余裕がない中も一生懸命やってくれたが、一方父からはぞんざいに扱われてきたことに対して、「たった一人の父親からすら愛されない私は価値のない人間だ」というのが常日頃の口癖にはなっていたが。今までのストレスが一気に押し寄せたようで、26歳ごろまでは、外では気をつけるものの毎日否定的な言葉を繰り返し、通りすがりの人を一人一人呪いながら毎日を過ごしていた。だんだんと視野が狭くなって、「私がストレスを抱えているのはお前が私を作ったせいだ。責任も取れないくせに命を軽んじた愚かな親ども」と、同じ被害者の立場にいた母を毎日のように責め立てるようになってしまった。家族、結婚、子育て、専業主婦、この辺りの言葉がとにかく憎くて憎くて仕方がなかった。職場の人の結婚式に招待された後はしばらく家で怒鳴り散らし暴れ散らしていた。私は父とそっくりだ。見た目が似ているらしく、小さな頃からいろんな人に言われてきて一番嫌な言葉だったのに、私は本当に父にそっくりな人間になってしまった。悲しかった。
26歳を過ぎた頃から、急に今まで気にしてきたさまざまなことがどうでも良くなった。通りすがりの人を呪いたい気持ちなんで空の彼方へ飛んでいったし、他人が幸せでも、何よりではないかと祝福すらできる。趣味が高じた楽しい仕事に取り組んで、尊敬できる知り合いがどんどん増えて、自己研鑽を頑張って、特別な功績を積んでいないにしても、できるだけのことを頑張って生きていると感じている。幸福学の存在を知ったことも良かった。たまたま知り合いが幸福学について話していて、なんて胡散臭い名前なんだと思ったが、本を読んでみたら、楽に生きられる方法がたくさん載っていてとても参考になった。

少し前向きなことをかきたものの、医者にも言われた「自分を苦しめるものは忘れて自由に生きるべきだ」と言う考え方は私には合わない。
憎いものは憎いし、受けたことを忘れることなんてちゃんとした記憶障害にならなければ無理だと思う。
自分の手を汚さず仕返しができるなら、それできっちりおあいこにするのが良いのではないかなと思う。

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