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#10 個性としてのクリエイティビティと仲間とのきずな

最終的に勝ち残った1%の富裕層にとって、この世の天国はすでに実現している。自分たちと同じ水準の天国を全人類に提供するわけにはいかない。そんなことをすれば地球はメルトダウンしてしまう。残りの99%には別のやり方で幸せになってもらおう。1%にとっての天国もあれば、99%にとっての天国もある。その天国を、ベーシックインカムによって供与する。食べ物は与える。医療も提供する。娯楽はスマホやインターネットで、ほぼ無料で手に入れることができる。この上、何を望むのか? なんといっても彼らは働かなくていいのだ。好きなことをしていていいわけで、一日中寝ていてもいいし、ゲームをしていてもいい。もちろんセックスに明け暮れてもいいんですよ~、というわけでベーシックインカム。いまはまだ夢物語に聞こえるかもしれないが、今世紀中に実現する可能性は高いとぼくは思っている。それがユートピアなのかディストピアなのかは、いまのところ決定不能である。ユートピアにもなるし、ディストピアにもなると言うべきだろう。どちらになるかは、ぼくたちの意志と熱意と構想力にかかっている。

片山恭一『世界の中心でAIをさけぶ』[2019: pp.45-46]

 わたしたちには選択する自由があります。わたしたちの未来は、わたしたちが選ぶのです。それがどんな未来であろうとも、それはわたしたち自身が選んだものです。であれば、できるだけよいものを選びたいと思うのが人情というものなのではないでしょうか。これまでも社会は良くも悪くもつねに変化してきました。ただ今回は、誰も予想もつかないような大きな変化が訪れるのです。そんなまるでわからないものに備えておこうとするのは無駄なことかもしれません。しかし、意味があるかもしれないと思えることはやっておいて損はないはずだと思っています。

 これから世界はメタバースとリアルの区別がつかないような世界になっていくと思います。そのとき、わたしたちはどのように生きているのでしょうか。生きがいを感じることはできているのでしょうか。わたしたちは、昔に比べればとんでもなく便利になった世の中に生きています。では今、生きがいは感じられているのでしょうか。「幸福感」は感じられているのでしょうか。「今が一番しあわせ」と思えているのでしょうか。現実は、もう暴動一歩手前というところまできてしまっているのではないでしょうか。このまま令和の「百姓一揆」が起きてしまうのでしょうか。

 過去の偉人として有名なレオナルド・ダ・ヴィンチやアインシュタインのIQであっても200程度といわれています。それに対して、シンギュラリティを迎えるころのAIのIQは1万と想定されています。もう頭のよさが桁外れに違うのです。こんな状況になった場合、人類はどうなってしまうのでしょうか。支配されて生きるか、能動性を発揮するか、選択を迫られるときは近づいてきているのです。AIによってさまざまな種類の労働がなくなり、また、労働の絶対的な量もものすごく減ることになるでしょう。それによって、新しいクリエイティブな活動を求められることになります。

 そして当然のことながら、そのクリエイティブな活動もまた、今とは異なるものになるでしょう。そのとき、人間はメタバースとリアルの区別のつかない世界で活動することになるでしょう。そこで生み出される新たな芸術に人々は価値を見いだしていくことになるでしょう。これまでの貨幣経済の基本が今回のシンギュラリティによって崩されることになります。労働の部分(下部構造)はAIが担当してくれるのです。わたしたちはクリエイティブな活動(上部構造)を担当するのです。

 そのときにわたしたちはメタバースとリアルを行ったり来たりしながら、次第にその境目を見失っていくのです。そういった超高度にデジタル化した世界を生きることになるのです。そんな世界であっても100%善の世界というわけにはいかないと思います。そこにもさまざまな人間の思惑が交差することになるでしょう。そのとき、わたしたちは能動性を土台とした個性を発揮する必要があるのです。個性をもった能動的な人間たちは、各自の能力によって仲間たちを守り、そしてあるときは仲間に守ってもらい、お互いにお互いを助け合って生きることになるでしょう。シンギュラリティによって人間の善悪が超越されることになるのならば問題はなくなっていますが、恐らくそのようにはなっていないでしょう。善悪の問題は〈シンギュラリティ後の世界〉においても残っているでしょう。そのときに〈能動性に支えられた個性をもった人間同士の善なる結びつき〉(きずな)というものが、どうしても必要になってくるのです。

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