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雑感記録(98)

【僕にとって"書く"ということ】


今日も今日で忙しかった。残業してタバコ吸って帰ろうとした時に1通のメッセージ。転職エージェントからの日程調整の連絡だ。しかし、僕はこの転職エージェントが苦手で、僕の伝えている希望と全く頓珍漢な求人を紹介する。アドバイスも何だかふわふわしていて、あまり信用していない。ただ彼是、このエージェントを利用して1年ぐらい経つ訳で無下にも出来ない。とりあえず「受けろ受けろ」とうるさいので紹介された求人をほぼ投げやり状態で受けた。まあ、受けるのは自由だ。

とにかくこのエージェントはひたすら電話をしたがる輩で、しかも毎回僕のタイミングが悪い時に連絡してくる。終いには急に「今日電話どうすか?」みたいなノリで連絡来るのが正直嫌なところである。僕は上手にかわそうとするんだけれども矢継ぎ早に「電話しようぜ!」みたいなノリのメッセージばかりでほとほと愛想が尽きた。

僕は転職エージェントを2つ利用している。実際のところは3つなのだが、そのうちの1つは登録して電話してからというものの3ヶ月ほど連絡がない。まあ、正直そこはハズレだ。電話では良いように言ってきたが、一向に連絡をよこさないのはつまりそういうことだ。これはこちらから願い下げだ。

もう1つのエージェントは僕にとっては凄く当たりで、めちゃくちゃ良い人なのだ。結構現職の忙しさにも理解がある人で、基本的にやり取りはメールだ。これは僕からするとかなり助かる。しかも、レスポンスが鬼のように早いので何事もトントン拍子に進んでいく。それに、結構適切なアドバイスを厳しく時に優しくしてくれるのでこちらも勉強になることが多い。何より、紹介してくれる求人が結構僕の興味をそそるものが多いうえに、「僕のこと考えてくれているんだな…」というのがよく分かる。


それで、僕は電話したがりエージェントの急な電話面談を上手くかわした訳なのだが、メッセージの内容を見て「いや、別に電話じゃなくてよくない?」というものが多く、1人憤りを感じている。電話で話せれば楽かもしれないが、それはどこか言葉で伝えるということを放棄しているような気がしてならないと僕は感じた訳だ。

それに比べて、先述した当たりのエージェントはそこの部分のバランスが非常に良い。基本メールでのやり取りの中で、「これは直接電話して聞きたい」とかこちらから能動的に動くことが多い。それにZOOMを使用して面接対策してくれたりして、実際にエージェントの顔を見て話をする機会も設けてくれるので凄く良い。適度な距離感を保っていられるのだ。そこに僕は心地よさを感じているのかもしれない。

何よりも、僕はそのエージェントのメールが結構好きなのだ。言葉1つ1つに「ああ、僕のこと考えてくれてるんだな」ということが垣間見える。それに適度に「今日は暑いですね」とか「九州は梅雨入りしたみたいですね」とか控えめな感じなんだけれども、接点を持とうとしてくれている感じが僕は堪らなく好きだ。

僕は無視しようと思えば、その簡単なものを無視できる訳なのだが、何だろう…その文面、言葉の緩急が僕は堪らなく好きなのだ。こういうところに人柄が出る気がしている。逆を返せば、ビジネスシーンでこういう風に思わせられるのは羨ましいなあと思う訳だ。こういう風に僕もなれたらなと。


と、こんな話から実は始めたかった訳では決してない。僕が書きたいことは転職エージェントの愚痴じみたことを書きたかった訳ではない。こういう風に書き始めれば、きっと書いているうちに何かしら出てくるだろうと思って、ただ単純に今日思ったことを書いてみた。

僕はこのnoteで文章を書くとき、基本的にはテーマを絞らず自分の赴くままに手を動かし、タイピング任せで書いている?打っている?訳である。どんな方向に行くか実は自分も知らない。だから僕は基本的に記事にタイトルは付けず『雑感記録』としているのである。こういった方が何でも書けそうな気がしたからだ。

しかし、とは言え文章になっているので何かしらの纏まりが欲しいので刺身のツマ程度に記事の冒頭にタイトルじみたことを書く。こんな【】を使用して、何だかわざとらしくしている感じがたまに自分でもイラつくことがあるが、ただ書いたものに纏まりを付けるのは書いた者の責任である。と言い聞かせながら今日も多分付けるだろう。ちなみに冒頭の【】は全て書き終わった後で何となくで決めている。

僕はやはり書くことが好きなのかもしれない。書くことが好き…いや、違うな…。勿論書くことが好きなんだけど、結局は自分が書いた文章が何だかんだで好きなんだと思う。そうでなきゃ、多分ここまで続けられていないはずだ。三日坊主である僕が唯一続けられていることのうちの1つだ。

書くことは人によって何か目的を持たせて書くこともあるだろうと思う。というか、そもそも言葉を使用するという時点で何か僕らは目的を持っているのかもしれない。それは「何かを伝達しよう」という意思だ。何かを伝えたい、これが最終的な目的として言葉を使用するのだと思うし書くのだと思う。それもそれで良いというか、ある意味で正解なのかもしれない。誰かに何かを伝達するための手段として書くということ。

勿論、僕もそういった点では伝達するために書くことをする。仕事や家族に何か伝えたいときなどがそうだ。当たり前すぎて意識していない。ただ、このnoteについては正直伝えようという気はさらさらない…というと語弊があるが誰かの為に書いている訳では決してない。このnoteは結局僕自身のために書いている。

しかし、自分の書いた記録を読んでいると「どうですか?」とか「ぜひ参照されたし」とかそういった言葉が頻発している。だから僕も自分のために書いているとは言え、どこかで伝えたいという意志…いや、欲望がどこかに潜んでいるんだろうと思う。だとしてもだ、究極「僕だけが分かればいいんだ」という気持ちで書いていることは間違えようのない事実なのかもしれない。


こうして書いていると、色々と書きたいことが湧いて出てくる。最近言葉に触発される機会が多くて、先のエージェントのメール然り、聞いてる曲然り、読んでいる本然り…。

進みたい道があるのだけれど
現実が迫り 進めない人へ
安定を取り それを手にした時
きっとあなたは思うでしょう
「もし、あっちに進んでいたなら
今はどんな日々を送っていたんかな?」
その答えを知る術は1つ
今 そちらに進む他ないのです
どちらにも進めるのはたぶん、どちらも進みたい道だからさ
夢追う日々は魅力だし
安定ある生活もまた魅力です
じゃあ、進みたい道ではなく
どちらの進んだ後の未来を覗きたい?
夢掴めるか?安定得れるか?
どちらの未来をあなたは知りたい?
恐れることない まっすぐ進め
どんな道でも歩いたら輝く
正解かなんて一生分からず
どの道?じゃなく、どの足で歩く?
やり直しはきく 生きてりゃまたすぐ
雨なら上がる だけどまた降る
未完成ゆえに不安が邪魔する
飛び込む勇気が道に変わる

神門『なら、こう生きよう』(2011)

僕はこの曲があることで何処か肯定された気分になり、日々通常の仕事をしながらも転職活動を乗り切れている気がする。正直、現職を捨てるのは不安があるのだけれども、やはり自分を変えたいという意志の方が強い。ただそれが正解か間違ってるかなんて言うのは分からない。

それに僕の人生であり、僕を知ってくれている人だったら「いいんじゃない?」と言ってくれるはずだ。それが正解か不正解かは置いておくとして、僕の意志を尊重してくれることは間違いない。ただ、そこに僕は甘んじて「皆がそういってくれるから大丈夫」というのは僕の意志がないみたいで何だか辛くなる。

人は1人では生きていけないというのは確かだが、最終的に決めるのは自分だ。ここの自分がブレてしまったら元も子もない訳だ。そんな中でこの神門『なら、こう生きよう』を聞いて支えられた。何というか1人でも戦って行けるような何かを得た気がした。

世界がどんなふうに終わるかを知ることなど、ほとんど問題ではない。たいせつなのは、世界がなんであるか、その真の意味がなんであるかを知ることだ―大いに疑わしくまた疑われてもいる支配力たる〈時間〉のうちにではなく、〈時間〉の扉そのものを奪われた世界の中で。

渡辺諒訳 ロラン・バルト「文化と悲劇」『文学のユートピア』
(みすず書房 2004年)P.6

これも僕に何かを残してくれた。「世界がなんであるか、その真の意味がなんであるかを知ること」これが大切だと。でも確かにそうだなと思う訳だ。

畢竟するに僕がこうしてつけている記録も、僕はただ書いている訳でこの書かれた世界がどんな終りを迎えるかというのは正直僕自身もどうでもいい。僕のために書いているのだからどんな形で終えてもいい訳だ。重要なのは終り方ではなくて、そもそもこの書かれた記事が何なのかということを知ることが大切なのだと。

しかしだ、こうして書いてみて僕はこの場に於いて書くことの意味を求めたくないと感じてしまった。何度も言うが、僕は目的を持って書きたくない。何かの衝動で赴くままに1つのテーマについて書くことは勿論あるが、別に誰かに読んで欲しいというよりは自分で読んで楽しめればそれで十分だ。そうだな、誰かの眼に1ミリでも入ればそれはそれでラッキーぐらいな感覚なのかもしれない。

だから、今日も何の纏まりもなく終わろうと思う。

よしなに。


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