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捨子にまつわる民間信仰

1.橋の下から拾われてきた子供たち 子供の頃、「お前は橋の下から拾ってきた子供なんだよ」と実の母親から言われたことがある。幼かった私はその言葉を真剣に受け止め、「僕はお母さんの本当の子ではないんだ。僕はよそのうちの子なんだ」と、ひどく思い悩んだことを今でも覚えている。 しかし、最近になって似たような経験をした人は意外にも多いのだということに気がついた。不思議なことに、橋の下で拾ってきた子供というこの奇妙な言い回しは、世代や土地を超えて広く全国的に見られるようなのである。

    • 狂い咲きサンダーロード(1980)

      【概要】 『逆噴射家族』『爆裂都市 BURST CITY』などで知られる石井聰亙監督が、22歳の若さで卒業制作として発表した近未来バイオレンス映画。学生映画にも関わらず、東映の配給で全国公開された伝説的な作品。舞台は幻の街サンダーロード。この街でしのぎを削っていた暴走族達は、警察による苛烈な取締に屈し、休戦協定を結ぶことになった。“魔墓呂死”の特攻隊長・仁は、「市民に愛される暴走族」を目指す同輩や、自分たちを取り込もうとする政治結社に反抗を試みるも、遂には右手と右足を切断さ

      • 田園に死す(1974)

        【概要】 寺山修司が制作・原作・台本・演出を務めた、『書を捨てよ町へ出よう』に続く長編映画二作目。東京で映画監督をしている現在の“私”(寺山)が、自身の原点である幼少期を回想して映像化する。しかし、現在の“私”が過去を美化して語ろうとするために、現実と虚構が入り交じりすれ違っていく。「家出」や「母殺し」や「かくれんぼ」といった、寺山の終生のテーマが詰め込まれた自伝的作品。1974年12月28日公開。 【解題】 本作は、寺山が自らの同名歌集をもとに映画化した自伝的代表作で

        • 狐のはなし

          1.狐のイメージ 日本の神仏の中で、最も多く信仰されているのは稲荷である。農耕神である稲荷は、古くから稲作で栄えてきたこの国の人々に信奉されてきた。しかし、その一方で稲荷と同一視される狐は、人を化かしたり取り憑いたりする妖怪としての側面をも備えている。以下に『動物信仰事典』という本より、狐について書かれた文章を引用してみよう。 よく勘違いされやすいのだが、稲荷神社のご神体は稲荷大明神(宇賀能美多麻)であって本来は狐ではない。狐は稲荷の使いである。稲荷信仰においては、古

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        記事

          夢日記 第三夜『残骸』

          こんな夢をみた。 退屈をもてあまして近所のスーパーを冷やかしていると、目の前に不思議な光景が飛び込んできた。それは二番レジ前に置かれたワゴンだった。そこには何かが山積みにして置かれているようだったが、奇妙なことに買い物客たちはそのワゴンを避けるかのように、両隣のレジにのみ行列をなしている。つまり、ワゴンの設置してある二番レジの周りだけ、ぽっかりとエアポケットができているのだった。僕は興味をそそられて、空っぽの買い物かごのまま二番レジへと向かった。 ワゴンの中に積まれていたの

          夢日記 第三夜『残骸』

          夢日記 第二夜『変身』

          こんな夢をみた。 気がつくと私は見知らぬ町の路地裏で、ひとり仰向けに横たわっていた。ここがどこなのか、またどのような経緯があってこんな路上で眠っていたのかどうしても思い出すことができない。ともかく家に帰ろうと上半身を起こそうとするが、どうにもうまくいかない。動かそうにも手足がないのだ。 よく自分の姿を確かめてみると、私はどろどろとした粘体の化物となって地面に這いつくばっていた。私がどうしてこんな姿形になってしまったのか、記憶は曖昧模糊として現在と過去の間を上滑りしていくばか

          夢日記 第二夜『変身』

          夢日記 第一夜『塔』

          こんな夢を見た。 真夜中、国道の高架下で死のうと思った。しかし、信号機が赤く灯るのを待っているうち、ふとある疑問が湧き上がってきた。高所から景色を眺めてみたら、美しいものが何かひとつは見つかるかもしれない。そうしたら、何も死に急ぐことはないと自分に言い聞かせられるのかもしれない。 薄暗がりの中、青白い街灯のぼうっとした光に照らされた階段が目に映った。歩道橋かと思い近づいてみると、それはこの場に不釣合なほど巨大な建造物の一端だった。歩道橋のように思われたのは外付けの螺旋階段で

          夢日記 第一夜『塔』

          黄金の便器

          1.引き裂かれた身体  気まずい沈黙を打ち消すように、くだらないお喋りを続けよう。紫煙を吹かし、安酒を食らい、カーラジオから流れ出すオルタナロックに夢中のような振りをして。こんな自分には心底うんざりしている。世界中のあらゆるものが引っくり返ったかのような大騒ぎ、そんな最中でも俺の心はどこまでもさめている。言語と論理でもって陶酔を囲繞することはできない。その逆もまた然りだ。 頭のなかで、ひとつの疑問がぐるぐると回っている。俺は母親から愛されているか?俺は母親から愛されて

          河童の正体① ~その分類について~

          河童、またの名を河太郎という。全身は緑色で、粘膜に包まれており、手足には水掻き、背中には甲羅がある。胡瓜や尻子玉を好み、しばしば人と相撲を取りたがる…。私たちは誰かに教えられたわけでもないのに、河童というものに同型のイメージを持っている。 だが、こうした河童のイメージが成立したのは、ほとんど近世からだったようである。河童という妖怪が現在の姿に定着する以前、原型となった水生の妖怪たちは実に様々な形態を有していた。笹間良彦は『図説日本未確認生物事典』において、河童の種類を次のよ

          河童の正体① ~その分類について~

          「わたし」を哲学する

          1.固有性としての「わたし」 私とは何か。普段、私たちは自分の足の爪先から頭の天辺まで「わたし」であると固く信じている。しかし、本当にそうだろうか。美容院で散髪した後、床に散らばった髪の毛を「わたし」であると思うことはないだろう。視線を身体の内側に転じてみても同じことが言える。血液や唾液や糞尿といったものは、私たちの外部に排出された瞬間に「わたし」という自同性を失ってしまう。 「わたし」が「他性」へと回収されてしまう上記のようなケースとは逆に、「他性」が「わたし」という

          「わたし」を哲学する

          環世界、世界、そして外部へ

          1.《環世界》~生物学の観点から~私たちは、すべての生物にとって客観的な世界があり、各々の生物はその環境内で同じ時間と空間を共有しているのだと考えがちである。 ところが、二十世紀最大の動物学者の一人であるヤーコプ・フォン・ユクスキュルによれば、世界は一般的に理解されているような単一的なものではなく、動物各々が主体的に構築している無限の多様性をもった知覚世界(ユクスキュルはこれを《環世界》と呼んだ)であるのだという。例えば、マダニという動物は嗅覚や温度感覚が非常に優れている

          環世界、世界、そして外部へ

          人間とは何か②

          神学的な視点からルネサンス期の哲学者、ピコ・デラ・ミランドラは『人間の尊厳について』と呼ばれる弁論の中で、「人間とは何か」という問いを神学論的な立場から検討している。 創世記によれば、神は森羅万象を創造した後、最後に自らを象った人間を生み出したとされる。だとすれば、万物が上位、中間位、下位の各位に配分された後、創造された人間はいかなる原型も、一定の場所も、序列も持ちえなかったはずであると、ピコ・デラ・ミランドラは考える。それゆえ、自らにふさわしい「固有の相貌」を持たない人間

          人間とは何か②

          人間とは何か①

          18世紀、近代分類学の祖であるカール・フォン・リンネは現生人類をホモ・サピエンス(賢い人)と名付けた。 興味深いことには、リンネは自著『自然の体系』の人類の項(ホモ・サピエンスという正式な名称は『自然の体系』第一〇版において初めて登場する)において、「汝自身を知れ」という古代ギリシアの格言以外のいかなる説明も記載しなかったというのである。 リンネはキリスト教的な人間観を首肯しながらも、あくまで近代科学的な観点から、猿と人間とを比較している。その結果、リンネは「猿には犬歯と

          人間とは何か①