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河童の正体① ~その分類について~


浅川鼎『善庵随筆』/ 鹿児島大学デジタルコレクション

河童、またの名を河太郎という。全身は緑色で、粘膜に包まれており、手足には水掻き、背中には甲羅がある。胡瓜や尻子玉を好み、しばしば人と相撲を取りたがる…。私たちは誰かに教えられたわけでもないのに、河童というものに同型のイメージを持っている。

『北斎漫画』/ 国立国会図書館デジタルコレクション

だが、こうした河童のイメージが成立したのは、ほとんど近世からだったようである。河童という妖怪が現在の姿に定着する以前、原型となった水生の妖怪たちは実に様々な形態を有していた。笹間良彦は『図説日本未確認生物事典』において、河童の種類を次のように区分している。

一般的に用いられる「かっぱ」は、川の童の意であろうから、武蔵・仙台・信濃・駿河・近江等で呼称し、また全国的に通用する語である。出羽久保田地方の「かっぱあ」、近畿・越後・佐渡・甲斐・九州の「かわッぱ」、肥前・肥後・日向の「がわッぱ」、薩摩の「かわっぱ」「がらッぱ」は訛りである。 また川の男の子の意味で、川太郎という所もあり、『和漢三才図会』では川太郎の項目で説いているから、これも全国的に用いられた語である。九州・安芸・近江では川太郎といい、出羽庄内の「がわだろう」、近畿・九州の「がわたろう」「がわたろ」、土佐の「ぐわたらう」「がたろう」「かたろ」、彦根地方の「がわた」、越後柴田地方の「かわた」、姫路地方の「があたろう」は訛りである。 また河童は小児形とみて、川小僧、川童子、川原小僧、川小坊主、川僧と呼ぶ地方もあり、童を「わら」「わろ」(山童と書いてやまわろというに同じ)と訓むことにより、越中の「がわら」、薩摩の「がわろ」、越前・近江・播磨・讃岐の「かわら」、越中の「てがわら」、前の「かうらわらわ」などがあり、川郎という所もある。 猿に似たと受けとめた地方としては周防・石見・伊予・土佐で「えんこう(猿猴)」、伊予では「えんこ」とも呼ぶ。 また亀からの連想では越中の「がめ」、水の神的見方をした場合には出雲の「川子大明神」、備前の「かうこ」、後の「水天宮」、豊前の「かわのとの」、南九州の「水神」、能登の「みづし」、尾張の「ぬし」等と呼ぶ。 また河童が馬を水に曳き入れるとの話から、松前では「こまひき」などという。

(笹間良彦『図説日本未確認生物事典』)

河童の異名は上に見るように多種多様であるが、大別すると水神を思わせる名前の系列、子供の姿を強調した名前の系列、動物の名前に近い名前の系列、その他の計四つに分けられるのだという。水神系には東北地方のメドチ、北海道のミンツチなどがあり、子供の姿をしたものには、関東地方のカッパ、カワランベ、九州のガラッパなどが該当する。動物系には、中国、四国地方のエンコウ(猿猴)、北陸地方のカブソ(川獺)やカワッソーなどが挙げられる。その他、特定の信仰に関わるものとしてのヒョウスベ、祇園坊主、身体の特徴からのサボテン、テガワラなどと、上記三つの系列のどれに当てはまらないものがある。

『水虎十二品之図』 / 国立国会図書館デジタルコレクション

姿形も地方によって相違があり、頭に皿がないものや、人間の赤ん坊のようなもの、亀やすっぽんのようなものと様々に伝えられているが、その反対に大の相撲好きであること、胡瓜などの夏野菜や人間の肝(尻子玉)が好物だということなど、少なからず共通項も見受けられる。では続いて、主だった河童の種類について紹介しよう。


    Ⅰ.カワロウ・カワタロウ


鳥山石燕『画図百鬼夜行』/ 川崎市民ミュージアム

河童が日本の文献上に初めて表れるのは、室町時代の文安元年刊(一四四四)の辞書『下学集』においてである。この巻一に「獺老いて河童に成る」と記されているのが恐らくは最古の記述だとされるが、この「河童」という文字には「カッパ」ではなく「カワロウ」という読みが当てられているのには留意しておきたい。実は、カッパという呼び名が広く知られるようになったのは十九世紀に入ってからで、それまでは「カワロウ」もしくは「カワタロウ」という呼び方の方が一般的だったのだ。古くは「カッパ」とは、江戸を中心とした東日本の方言であり、一方「カワタロウ」は上方の言葉だった。十八世紀までは文化の中心は上方だったため、「カワタロウ」の名称の方が主流だったというわけである。「カワタロウ」は『下学集』に記されているように、カワウソや猿などの体毛のある獣に近しい水怪としてイメージされていたが、「カッパ」という名称が一般的になるにつれてスッポンに近いものとしてイメージされるようになっていく。 
       

       Ⅱ.エンコ


『絵本集艸』/ 国立国会図書館

エンコとは猿猴のことで、元々は中国西南部から東南アジアに生息していた「猨(えんこう)」という手長猿がモデルとなっているらしい。河童の特徴として知られている、「両腕が一本に繋がっており、片方を引っ張ると腕が抜けてしまう」という話も、元々は中国伝来の「猨」の俗信に由来するのだという。『和漢三才図絵』巻第三十八「水獺」の項に、「獱獺・つまり獺(川獺)の大きいものである。頸は馬のようで身体は蝙蝠に似ている。あるいは獱獺に雌がなく、猨を雌とする。それで猨が鳴くと獺はやってくる、ともいう」とあり、川獺と河童の関連もここに見て取れる。


      Ⅲ.メドチ・ミンツチ


ミンツチ 水木しげる『続・日本妖怪大全』

メドチとは、河童呼称として相当古いものとして考えられている。古代人は水の霊を蛇や龍、ワニの姿として想像していた。記紀神話ではこうした水霊をミヅチ(大虬)と言い表されていたが、メドチはこのミズチから転訛したものと思われる。メドチは津軽を中心に青森、岩手、宮城に分布する水怪で、子供くらいの大きさで、猿に似た容姿で体は黒く、人を水の中に引き込むのだという。北海道のミンツチはアイヌに伝わる水辺の霊で、人間の子供と同じぐらいの大きさ、足跡は鳥に似ていて、両腕が体内で繋がっているなど、河童とよく似た特徴を持っている。ただし、ミンツチは妖怪ではなく神であり、水死者と引き換えに豊漁を約束するのだという。


        Ⅳ.水虎


鳥山石燕『今昔画図続々百鬼』/ 九大コレクション

水虎は中国から本草学を通じて流入してきたもので、津軽の一定の範囲にのみ集中して分布している。水虎も人間の子供ぐらいの大きさで、身体中に鱗があるなど私たちのイメージする河童に近い形をしている。また、北海道のミンツチとは異なり、人に害を与えることはなく、水難火難を防ぐ小神として祀られているという。水虎は九州・隠岐でいう「セコ」(セコゴ、セコボズ、セコンボ等)と語感が似ていることから、「セコ」のルーツなのではないかと考えられている。


    Ⅴ.ヒョウスベ・山童


鳥山石燕『画図百鬼夜行』/ 川崎市民ミュージアム

ヒョウスベは筑前から南九州にかけて言う河童の異名であり、一説では河童という名称より古いのではないかとされる。神護景雲2年(762年)、春日大社が三笠山に遷された際、内匠頭某が秘法を用いて人形に命を与えて社殿建立のための建築労働力とした。しかし、工事が終わって不要となった人形を川に捨てたところ、捨てられた人形が河童に化けて人間に害を与えるようになった。称徳天皇の命により兵部大輔の任にあたっていた橘島田麻呂がそれを鎮めたので、その河童たちを「主は兵部」という意味から兵主部(ヒョウスベ)と呼ぶようになったのだという。

もっとも、この話のバリエーションは非常に多く、大工が大工事のために人形に生命を吹き込んでこれを使役し、完成後に不要になった人形を川に捨てたところ、河童に変化したという点は共通しているが、登場人物および時代設定にはかなりなばらつきがある。例えば、工匠を竹田番匠や左甚五郎といった高名な大工として語られることもあれば、ヒョウスベを征伐したとされる橘島田麻呂その人を、ヒョウスベを生み出した工匠本人だとする話まである。

また、九州を中心に西日本では山童という妖怪が知られているが、この山童はヒョウスベが山に移り住んで、姿を変えたものだろうと言われている。地方によって時期は異なるが、およそ秋から冬にかけてヒョウスベは山へと登り山童になり、春から夏にかけてまた川に戻ってヒョウスベとなるのだという。

鳥山石燕『画図百鬼夜行』/ 川崎市民ミュージアム

『水虎考略』(天保年間刊)では、ヒョウスベという名前は、ヒョウスベの鳴き声である「ヒョンヒョン」という音に由来しているのだとしている。柳田國男はこの説を参考に、胸黒千鳥という渡り鳥がヒョウスベの正体だろうとしている。神は遠い海を越えて訪れ、幸せを運んでくれるという日本古来の寄神信仰的な考えが、渡り鳥の生態を極度に神秘化したのではないかというわけである。渡り鳥の渡りの周期と同時期に、ヒョウスベは山と川を行き来するのであるが、これは田の神が春になると山から降りてきて、秋の収穫が終わると再び帰って山の神になるという日本古来の信仰が零落して、山童・ヒョウスベという妖怪に姿を変えたものであると柳田は見ている。

この柳田の説に対して、異を唱えたのは弟子の折口信夫である。折口は、ヒョウスベとは「兵主神」であろうとする説を立てた。兵主神は日本神話にも登場しないため、今ではほとんど忘れ去られた神であるが、平安時代中期に編集された『延喜式』神名帳には、式内社としてこの神を祀る神社が十九社ほど載っている。

後漢代の墓壁に描かれた蚩尤 : 兵主神と同一視されている

その神社も但馬国(兵庫県北部)に集中していたというから、恐らくは新羅(朝鮮半島)からやって来たという皇子天日槍の本拠地で祀られた異国の神であったろうと考えられる。折口信夫は、「九州南部で聞かれるヒョウスベは、大和(奈良県)の穴師坐兵主神の末であろう。この信仰は播州(兵庫県南部)、江州(滋賀県)に大きな足だまりをもち、かつては北は奥州(東北地方)から、西は九州までにわたっていたものだが、今ではすたれてわけもわからぬ物になって了うた」と論じているが、なぜ兵主神がヒョウスベとなったのか、はっきりとその論拠を示しているわけではない。


【参考文献】

・小松和彦監修(2015)『大人の探検 妖怪』、有楽出版社
・小松和彦編(2011)『妖怪学の基礎知識』、角川書店
・小松和彦(2013)『妖怪文化入門』、角川書店
・柳田國男(2006)『新版 遠野物語  付・遠野物語拾遺』、角川書店
・柳田國男(2013)『新訂 妖怪談義』、角川書店
・折口信夫(2006)『河童の話』、青空文庫
・中村禎里(2020)『河童の日本史』、筑摩書房
・多田克己(1999)『百鬼解読』、講談社
・谷川健一編(1988)『日本民俗文化資料集成 第八巻』、三一書房
・笹間良彦(1996)『日本未確認生物事典』、柏書房
・伊藤龍平(2010)『江戸幻獣博物誌 妖怪と未確認動物のはざまで』、青弓社
・鳥山石燕(2014)『鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集』、角川書店
・水木しげる・村上健司(2008)『日本妖怪大事典』、角川書店
・水木しげる(2022)『日本妖怪大全』、講談社
・水木しげる(1994)『続・日本妖怪大全』、講談社
・福永武彦(2015)『現代語訳  古事記』、河出書房
・福永武彦(2015)『現代語訳  日本書紀』、河出書房
・根岸鎮衛(2013)『耳袋の怪』、志村有彦訳、角川学芸出版
・飯倉義之編(2010)『ニッポンの河童の正体』、新人物往来社
・板倉義之監修(2020)『江戸の怪異と魔界を探る』、カンゼン
・原田実(2008)『日本化け物史講座』、楽工社
・芦田正次郎(1999)『動物信仰事典』、北辰堂
・香川雅信(2022)『図説 日本妖怪史』、河出書房
・朝里樹・氷厘亭氷泉(2021)『日本怪異妖怪事典 関東』笹間書院
・湯本豪一(2023)『日本幻獣図説』、講談社
・湯本豪一(2016)『日本幻獣図譜-大江戸不思議生物出現録一』、東京美術
・荒俣宏他(2017)『荒俣妖怪探偵団 ニッポン見聞録』、学研プラス
・少年社・中村友紀夫・武田えり子編(1996)「妖怪の本 異界の闇に蠢く百鬼夜行の伝説」、『Books Esterica』24号、学習研究所
・宍戸宏隆編(2007)『ヴィジュアル版謎シリーズ 日本の妖怪の謎と不思議』、学習研究所
・淡交社編(1996)『火と水の祭り-民俗文化の源流を探る-』、淡交社

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