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「人文学は世界に必要か」のレスポンス

ハロー世界。

人文学を世界に活かす方法について考えた、私の前記事に頂いた色々なレスポンスが結構面白かったので、紹介させてほしい。


全然関係ないけど……知ってる人いる?
前回のヘッダー写真は京都にある、大正時代の公立小学校・立誠小再現室。
小学校揃えということで、映画「二十四の瞳」の苗羽小を持ってきました。名作でだいすき。

1.要・不要思考は不要

頂いたレスポンス(note内に留まらず、Twitterのコメントなども見ている)で一番多かったのがこれだ。
濃度は様々。

  1. 要・不要を自分は気にしたことがない/しないようにしている。

  2. 気にしたことがないが、考えてみればこんな形で活きているんじゃないだろうか。

  3. 学問には要・不要を超えたところに意義があるので、議論するのはナンセンス。

たとえば、私の記事を引用して感想を書いてくれた守宮さんの記事はこちらだ。
(守宮さんとは以前から読書つながりの友人で、大学で学んだことや社会生活についてよく聞かせてもらっている。)

私は守宮さんの友人として、守宮さんの考えをこういうかたちで改めて知れることを嬉しく思う。
そしてそれは普段見ている守宮さんの人間像とも一致している。

きちんと手の届く高さに目線があって、自分にとって楽しいものがしっかりしている。
シンプルにそのために、心の動くものを深く学び、思考している。

きっと、1~3濃度問わず、私の記事に「自分は要・不要で考えてないな」とレスポンスしてくれた人は、少なからずそういう学びの姿勢を持っているんだと思う。

その姿勢を尊敬する一方、私はそちら側に「なれなかった」人間だ。

記事内からも受け取れると思うが、私は「社会の役に立つ」という価値観を、比較的肯定している。
それを求められる環境下で、私の人格形成期にはなまじ成果を出せていたため、あまり環境を疑うことが無かったのだと思う。
(このことに複雑な思いを抱いていることについては、私の課金記事シリーズを読むと結構赤裸々に書いているので、読みたい人は読んでみてほしい。)

これはきっと、変えられない価値観だ。
私は人文学を単体で楽しい、美しいと思いながら、同時に、「私と社会を繋げる方法になってほしい」という、人によっては傲慢に思うだろう感情を抱いている。

また、学ぶ側がどうあれ、いずれにせよ社会の中に「学びを社会の役に立ててほしい」と求める人は存在する。
だからこそ絶えず議論は存在するのだし、世知辛い話をすれば、国にも大学側にも予算というものがある。

人間が一人で全ての他者要請に応えることは不可能だ。
だから純粋に学ぶことが楽しい人々は、こんな声は無視しても良い。

だが私自身は、家族などの周りの人がお金を大事にする価値観であることや、国・大学側に就職した友人たちがいることから、要請を身近に感じ続けているのだと思う。

私はおそらく、生き方から、社会や世界という視座を捨てることができない。
そこに「至って個人的な取り組みである」人文学は絡まるのか、ということに、何年も葛藤してきた。
その鬱屈が、私に前記事を書かせた。

結論として、前記事は
「それを人文学と呼ぶかは別にして、私が人文学的いとなみだと思う行為から受け取ってきたもので、世界は優しくなると思うし、そうであってほしい」
とした。
この想いは何年もかけて実体化してきたもので、そう簡単には変わらない。
私の中でも、強いて言えば、書き終わってから、ウーン、まあ本当にそれを人文学と呼ぶかは人それぞれだろうな……と思ったが。

繰り返しになるが、自分がそんな傲慢で、個人を超えた背丈の願いを持っているからこそ、ただこつこつと、日々の喜びを込めて学ぶ人たちの姿は強く美しいと思う。
若かった私は、昔それを「役に立たなくて良いのか?」と批判的に捉えてしまっていたこともある……というのは、記事に書いたとおりだが。
役に立っているのだ、だってそれでその人たちが豊かに息をできているのだから。
私に変えられない価値観があるように、そうとしか生きていけない人は当たり前にいると思っているし、そういう人々のためにも、無条件に、多彩な学び舎は開かれていてほしい。

ちなみに

この節で触れると求められていない・あるいは下世話になってしまう補足だが、人文学は全然役に立つ。
私は現職でマーケティングをしているが、「顧客心理」や「顧客体験」について考える作業はかなり、理性で判断しながら想像力を扱う作業だ。
私はこの仕事を、純・「テクストに向き合う力」が活きる場だと思っている。私自身が未熟なので、説得力が足りないのだけど……よくできる上司も文学部だった。

さらに、組織マネジメントなどの領域になると、他者の思考そのものを扱うことへの慣れは、もっと力を発揮する。
これも周りの、仕事ができる人たちから学んだことだ。

2.沈黙からの脱却

もう一つ印象的だったのが、NikolaiMisonikomiiさんのレスポンスだ。

同じくロシアや東欧に興味がある方からレスポンスが頂けたのは、私としては望外の喜び、かつ緊張だった。

こちらの記事では私のウクライナ戦争へのスタンスについて触れていただいている。
NikolaiMisonikomiiさんは、日頃からロシア・ウクライナ関係の記事や呟きをnoteで発信している。

格好のいい言葉を並べたが、結局は私は勉強不足、日頃のインプット不足でニュースについていけず、何を言っても不平等な感情の吐露になりそうで、もっと勉強したいと焦っているだけだ。
だから、記事を通してこうして、自分の視点を発信している方に出会えたのは一つ、嬉しいことだった。

また、関連しながら少し話が逸れるが、私と去年、ウクライナ侵攻の話を真面目にしてくれた長いフォロワーがいる。
その方は、「人文学を学ぶと価値相対主義に陥りがちだが、自分にとって何が善で何が悪であるかはきちんと発信すべきだと思う」という旨の発言をしていた。
その時私は、「人文学を学ぶと価値相対主義に陥りがち」ということに、納得しながらも、何がいけないのかが理解らなかった。
また、自分は善悪の区分もしっかりできているつもりでいて、表層だけで言葉をとらえていた。

ただ、今から考えると、私はまさに「価値相対主義のカルマ」に囚われていると思う。

私が発言を避けているのは、無知への恐怖が主因だ。
それはやんわりとした「何にでも背景はあるからね」に陥り、いずれ社会の流れへの無批判な迎合を招きかねない。

変えられない性格上の問題はあるとしても、これは、自戒として常に胸に留めておきたい。
自分が間違っていると思うものは、勇気が必要でも拒否する姿勢。
まだまだ躊躇いがあるので、オープンでインターネットに綴るかは別にして、それを養うこともおそらく、私の課題のひとつだ。

「自らの思考で拒否ができないこと」は、気を抜けば巨悪を産む。

それもまた我々が人文学から得られる知識のはずである。


ちなみに

価値相対主義の問題点についてさらに強く考えるようになったきっかけは以下の本である。
ブックレットで比較的手軽に基礎知識が網羅されているので、興味がある方にはおすすめしたい。
著者の一人・田野大輔さんのTwitterも、頻繁に世の先入観からくる誤解を正している。

こんなところで!

私は何度も言うが、自分のことを、文章と自己表現で呼吸をしている、と思っている。

それが届いたよ、と教えてもらえる世界であることが、私にとってはすごく嬉しい。


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