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初めての涙 (短編小説)

 彼女はよく泣いた。“しくしく”と横に字がでてきそうに泣くこともあれば、くすんくすんと鼻を鳴らすこともあった。その泣き方は、周りの先生だったり友人だったりの目には可愛らしく映っていたようだが、私は彼女の泣き方を見る度に、そのわざとらしさにうんざりした。瞼の上に薄く、そっと乗せられたアイシャドウを見せるように、彼女が目を伏せ、目の際に溜まった涙がその頬を伝っていく時、私は密かに心の中で悪態をつく。
 どうやったら、そんな風に涙をコントロールできるのかしら。
 反対に、私はあまり泣かなかった。高校生になった今はもちろん、保育園に通っていた頃も、ほとんど泣いている姿を見たことがない、と祖母は言う。正直、そんな小さな頃の記憶なんてもうないが、昔、美里みさととその両親に連れられて行った夏祭りで彼女の両親と逸れてしまった時、心細げに鼻を啜って泣く彼女を慰めたことは覚えている。確かに、記憶の中に彼女の泣き顔はいくつもあるが、自分が泣いた記憶はない。
 私は人前で泣くことに対して、意義を感じていなかった。一人の時、悲しくて仕方がないと、やり場に困って宙に浮く感情をどうにかするために、涙を使うことはままあった。あるいは、泣くことで時間が過ぎるのを待つことも。何にせよ、私にとって涙は自分の内面的な存在であり、決して人に見せたいものではなかったのだ。でも、彼女は違った。彼女の涙は、人に見せるために存在した。彼女はどんな風に泣けば美しく見えるかよく知っていたし、顔の角度や睫毛の震わせ方、押し殺した息の吐き方や鼻の啜り方まで研究し尽くしていた。私と彼女では、涙の定義が天と地ほどに違うのだ。

なおちゃん、ね、聞いてる?」
 下から顔を覗き込まれ、私はふと我に帰った。学校帰りの市立図書館で、私たちは形だけ参考書を開き、鉛筆をくるくると回しながら、電車が来るまでの時間を潰している。
「ごめん、なんだっけ」
 館内は図書館特有の静かさに包まれており、大きなガラス窓からは西日が差していた。時折、誰かが本のページをめくる乾いた音がする。もうー、と唇を尖らせ、彼女は頬杖をついた。
「松岡先輩、もうすぐ引退なんだって」
「ああ、そっか。最後の大会終わったもんね」
「受験に集中したいから、しばらく外では会えないって言われちゃった」
 えー、と相槌を打ちながら、私は松岡先輩の顔を思い出す。小麦色に焼けた肌と短く切り揃えられた髪、細身で高身長なスポーツマンで、女子からの人気を博している。バスケ部の部長だと言うことも、ポイントが高いのだろう。よくある少女漫画に出て来そうな、爽やかな笑い方をする先輩だ。
「受験生は大変だねー。ま、来年は我が身……だけど」
 少ししょんぼりした様子の彼女を、元気づけるように明るい口調で言った。彼女は少し笑って、肩にかかる髪を揺らす。
「だねー」
 そして不意に立ち上がり、机の上に放っておかれた参考書や筆箱を鞄の中に放り込むと、うーん、と伸びをした。
「そろそろ時間だから、行くね」
「もう?」
「そー。今日は早いの」
 じゃ、と手を挙げる彼女に、また明日、と返す。ブラウスの袖口から覗いた手首が、細いな、と思った。昔からずっと、細いその手首。小学校に上がる前から、彼女は自分がいつか可愛くなることを周りに示唆していた。白い肌は柔らかく、滑らかで、髪は茶色くて細い。瞳は半型を横に倒したような形で、いつも微笑んでいるかのように見え、人好きのする顔だ。それに反し、私の肌は日に焼けてか生まれつきか、真っ黒で、髪も黒くて硬いストレート。目なんてちょっと吊り目で、真顔でいると冷たい人かと勘違いされる。隣の家に住み、昔から親友同士だった私たちは、何かと比較されてきた。小学校でも中学校でも、私たちは周りからセットに思われていたし、一人一人の存在よりも、“二人”で認識されることが多かったように思う。そのことに居心地の良さや、温い安心感を覚えつつ……なんだか今になって、妙な窮屈さを感じている。なぜ? いつの間に、こんな風に感じるようになったのだろう。
 窓から見える太陽が、徐々に山の尾根に埋もれていく。小さく、溜め息をついた。壁にかかっている時計を見ると、ちょうど六時になるところだ。もう一度溜め息をつき、鞄を持ち上げた。教科書とノートしか入っていないはずの鞄は、なぜかいつもに増して、ずっしりと重かった。

“噂”を聞いたのは、それから二週間ほど経った、月曜日の朝だった。朝礼前の賑やかな教室の前で、不意に松岡先輩の名前が上がった。教室の隅で本を開いていた私は、そのままの姿勢で級友たちの会話に耳を澄ます。
「やばいよね……」
「仲良いように見えたのに……松岡先輩に失望ー」
「え、て言うか、美里みさとは知ってるの?」
「さあ? 先週は普通に登校してたけど」
「可哀想……」
 あたかも同情しているかのようなその口調には、なんだか、不意に与えられたお菓子を一生懸命頬張る子供を連想させられた。本を閉じ、首を回して彼女を探すが、まだ登校してないのか、その姿は見つからない。時計を見る。長針は六の字に随分近くなっている。遅刻にならないのは、八時三十分までだ。電車通学の彼女は、毎日きっかり同じ時間に登校する。いつもなら、この時間には私の席に来て、悪気なさげに読書の邪魔をするのだが、今日は……。手元の本のページ数を見ると、今までになく読み進んでいる。一ヶ月前に借りて、図書委員会から返却の催促をされている本だ。集中して読めたはずなのに、もう頭の中に本の内容は残っていなかった。朝礼の時間が近づく。立ち上がり、小走りで教室を出る。一階への階段を駆け下り、とりあえず正面玄関に向かった。
“やばいよね……”
“先輩に失望ー”
“美里は知ってるの?”
“可哀想……”
 どう言う意味だったんだろう。松岡先輩と彼女についての会話なのはわかる。でも、“失望”、“可哀想”。走りながら、会話の核心を探る。二年前のことが、脳裏に浮かんできた。聡くんという同級生と、二ヶ月ほど付き合っていた彼女が彼に振られた。教室の中で、彼女は彼の顔を見て、目にいっぱいの涙を溜めていた。
“どうして?”
 と顔を傾けると、大粒の涙が頬を伝って床に落ちる。彼女は小さな声で、わかったわ、と言った。それから毎日、彼女は泣いてばかりいた。聡くんが可哀想になってくるくらい、同情票が彼女に集まり、聡くんは批難された。彼女は何かにつけて涙を溢し、瞼を伏せて睫毛を濡らした。あの時、私は初めて、彼女に対して苛立ちを覚えた。彼女が女友達に囲まれて、くすんくすんと泣いている時、私は“親友”というレッテルをビリビリと剥がしたくなった。親友の“辛い時”になんて冷たいんだ、と女の子たちにはそれこそ冷たい目を向けられたが、私にはむしろ、聡くんの方が“辛い時”なのではないかと思っていた。悪い子じゃなかったし、彼女を嫌いになったわけでもなかっただろうに。それでも気持ちが冷める時は来る。
 チャイムが鳴る。正面玄関には誰の姿もなかった。靴箱の中に、スーパーの棚に陳列する商品のように規則正しく並ぶ靴の中から、彼女のものを探す。去年の誕生日に買ってもらったという靴で、淡い乳白色をした、決して派手ではないが高価そうな、他では見ない靴だ。やっぱり、ない……か。ふう、と息を吐き、諦めて教室に戻ろうと身体を捻ると、ちらり、と乳白色が目の端に映った。彼女の靴が、靴箱に入れられず、そのまま三和土たたきに脱ぎ捨てられている。
「いる」
 振り返り、廊下を走った。職員室の前も、校長室の前も、構わず駆け抜ける。静かな廊下に、自分の足音だけが異様に大きく響いた。階段を駆け上がり、教室へ向かう。息が切れた。どうして、校舎の中を走るとこんなに疲れるんだろう。外を走る時はなんてことないのに。廊下や階段を走る時、あっと言う間に息切れがして、足が痛くなる。まるで体力をどこかへ置いて来てしまったみたいに、心拍が速い。茶室を通り過ぎ、音楽室の前を駆け抜ける。先生が見たら、怒鳴りそうだ。化学室を過ぎると、隣には美術室がある。私はそこで、足を止めた。さっき通った時には閉まっていたはずの扉が、二十センチほど開いている。
 息を止め、ゆっくりと近づいた。扉の影に隠れながら、どうしよう、と思う。中にいるのは、彼女だろうか。深く息を吸って、吐く。室内からは何の音もしない。そのことが、私が部屋に入るのを躊躇させていた。
 ……どうしよう。
 扉に手をかけてみる。ひんやりと、冷たい。私は思い切って、部屋の中を覗いた。静かに。覗くだけで身体は完全に廊下側にある。初め、誰の姿も見つけられず、私はほっと脱力した。しかし、それも束の間、私は部屋の隅にいる彼女の姿を捉え、再び緊張感に包まれた。
 音がない。何の音も、この部屋には存在しなかった。時間が止まったかのような静けさの中に、彼女がいる。その彼女の姿も、異様だった。ギリシア神話にでも登場しそうな男の、白い石膏像に被さるようにして、それを抱いている。彼女の鞄が、所在なげに床に放られていた。彼女の背中は、別に、震えてはいなかった。しかし、私は直感的に、彼女の涙を感じた。泣き声なんて、聞こえなかった。でも、私には、彼女の嗚咽が聞こえた気がした。部屋には何の音も存在しなかった。それなのに、部屋の中は濃密な空気に満ちていた。彼女は泣いてなんかいなかった。ただ、石膏像を抱きしめていた。
 足が、動かなかった。喉が渇く。彼女が泣く姿を、初めて見た、と思った。音はない。動きもしない。けれど今、確かに彼女は泣いている。じわり、と目の奥が熱くなるのを感じた。
 ずっと、親友同士だった。いつも隣にいる、私と正反対の彼女が大好きだった。一方で、何かと涙を使って状況を操作する彼女が嫌いだった。ずるい、と思っていた。時に憎しみさえ感じるくらいに。泣いている彼女が大嫌いだった。でも、今は違う。なんだか空気が振動して、彼女の感情が伝染しているかのように感じられる。泣いている彼女を、愛しく感じた。石膏像を抱く彼女のように、彼女を抱きしめたい。
 彼女は泣いてなんかいなかった。泣き声なんて聞こえないし、彼女の肩は震えてはいない。でも、空気が湿っている。塩辛い涙の匂いが宙を漂い、一人歩きする。その匂いが私の中に染み込んで、胸の奥に届いた。理由なんて、もうどうでもよかった。いつの間にか、彼女の涙の理由も、どうして自分が必死に彼女を探していたのかも忘れていた。
 彼女は泣いてなんかいなかった。泣き声なんて聞こえないし、彼女の肩は震えてはいない。
 でも、私は泣いていた。
 音のない空間の中、冷たい涙が頬を伝うのを、理由もわからず感じていた。

 


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