見出し画像

何で、まだ生きているのだろう

一般の人との間に違和感

自分には、自分の人生が続いている事がうまく理解できていない。
或いは、統合失調症にかかった辺りで人生は終わっていたのではないのだろうか。

仕事とかやっていると、一般の人に付いて行けていない自分がいる。
一般の人は精神科にも通わずに生きている訳で、それと比較すると自分の人生は厄介な人生だ。

この厄介な人生において思う事は、その人生が終わっているという認識が寧ろ重要だという事だ。

一般の人はとりあえずそういう価値観は持っていないだろうけど、意外と同じ病気の人や他の精神病の人もそういう価値観を持っていない場合が多い。
結局、元に戻りたいとか(元に戻れるとか)そういう願望(妄想)を持っている人が多いのだ。

自分にはとりあえず、今こうやって生きている事にすら違和感がある。
仕事に行く時にも職場の人は普通に迎え入れてくれるけど、自分には自分の人生はもう何十年も前に終わっているという認識がある。

統合失調症は、社会的な死

とりあえず、こうして文章を書いてnoteに投稿したりしている。
ある意味それは人生が終わったから書いているのであって、これから始まるとかそういう事ではない。

言葉の世界は一般的な世界において死んだ人の居場所で、寧ろ一度社会的に死んでいるという事がこの言葉の世界で生きているという事なのだろう。

だから、これから生きるとかいう希望を持つべきではなく、寧ろ既に死んでいるという認識で書く必要があるのだろう。
文章を書くという事はそういう負い目がないと書けない筈だと自分は思っている。

死というものはそこからは再生できないので、ただそこで終わっているという認識だ。
それが、社会的にだとしてもである。

生きているように死んでいる

仮に一〇〇歳まで生きたのだとしても、それは結局人間ではなくゾンビのようなものだ。
それは、甦ったようで甦っていない。

自分としてはそこで終わっているので、これから終わりに向かっているのではない。
今生きているのだとしても、その生きている理由もよく分かっていない。

或いは、そういう意味では逆に自分には文章を書くモチベーションがあるという事になるのだろう。
文章を書く事は社会的に死んだ人の選択であり、会社とかで普通に働いて普通に生きて行けるのならばそれは本来その選択をする必要はないのだ。

自分は、多分未だに生きている。
それにしても、それはただの妄想や幻覚なのかもしれないという認識が残っている。

その経験や認識がまず、自分が統合失調症患者であるという事なのかもしれない。

そういう事で、結局自分と一般の人との間には埋まらない溝がある、という事である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?