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なぜ人間には人権があるのだろうか

子供の頃、手塚治虫の火の鳥を読んで、出てきたキャラクターが虫の命を大切にする描写に感化されたことがある。少年の僕は虫の命を大切にしようと蚊に自分の血を分け与えたりしていた。部屋に出てくるゴキブリに名前をつけて家族がゴキブリに危害を与えようとするのに妨害を企てた。その時は「なぜ虫の命の価値は人間の命の価値と違うのか」なんてことを考えていた。

そして、小学校だか中学校で人権の概念を学んだ。

人権とは,すべての人間が,人間の尊厳に基づいて持っている固有の権利である。 人権は,社会を構成するすべての人々が個人としての生存と自由を確保し,社会において幸福な生活を営むために,欠かすことのできない権利であるが,それは人間固有の尊厳に由来する。

Googleより

とのことらしい。人間固有の尊厳ってのは一体全体なんなのだろうか。少年時代の僕はこういったことをよく考えていた。

ちなみに菜食主義になろうという考えには至らなかった。生きていくためには他の生物から栄養をいただくのは必要不可欠であるし、食べたり食べられたりすることで生物間で栄養の受け渡しをすることは自然な営みに感じたからだ。しかも、栄養摂取をしてよいか、するべきではないかの「境界」をわざわざ動物と植物の間に定めようとする試みそのものにも不自然に感じた。

当時、僕はこの「境界」という概念をこういった問題へ取り組むための思考フレームとして多用していた。「境界」は内と外を区別するとともに、「境界」内の個体を一定の基準以上に扱おうとする機能をもつ。古代のアテネではアテネ平民とそれ以外の人たちとの間に「境界」を定められているし、動物愛好家たちの思考は人間と愛護動物とその他の生物に「境界」を定めている。あらゆる差別は人間の間に「境界」を定めることで生じる。これは内と外とを区別する京都文化で育った経験に影響を受けていたのかもしれない。ともかく、現代の多くの人は人間とそれ以外の生物の間に「境界」を定めているし、人権等の法概念もそれに基づいて作られているようだった。

僕として、なぜ人間とそれ以外の生物の間に「境界」を作っているのか。その答えを論理的に知りたかった。この文章はそうやって悩んだ少年時代の僕自身へ、自分なりの回答として送るメッセージである。

実はこのことに対する答えを理解するためには特別な知識は必要なく、世界史の教科書に掲載されている内容から推論できる。

17世紀から18世紀にかけての啓蒙思想の時代に人権等の概念は育まれた。例えば、ジョン・ロックは人間社会が存在しない世界を仮想的に仮定し、その仮想世界で各人が持っている権利を自然権と呼んだ。そして、各人がもつ自然権を調整、保証するために社会と契約していると考えることで法律を解釈しようとした。そして、アメリカの独立宣言やフランス革命では、そういった啓蒙思想によって影響をうけ、人権を宣言した民衆が当時の国家権力に歯向かった。その後、人権が様々な国で認められるようになるにつれ、人権を保証された国民からなる国民国家の法が旧制度の国よりも、様々な戦争において強いという現象が見られた。一方、19世紀と20世紀の社会運動では、奴隷制度の廃止、労働者の権利、女性の権利、そして民族の自決権など、さまざまな社会運動が人権の範囲を拡大してた。

まず、ジョン・ロックの思想から、なぜ人間のみに人権が与えられるのかを解釈してみよう。自分の自然権を保証するために他者の自然権を認めたり、社会との契約を行うのだから、そのような社会の構成員足るためには社会と適切に契約できる必要がある。つまり、適切なコミュニケーションを取れる人は権利を付与されるということになる。次にフランス革命において、多くの民衆に権利が与えられたにも関わらず、実際にライジングしたのはブルジョアジーである。とすると、このことは味方を変えると人権という建前を掲げることで、多くの一般大衆を味方につけたブルジョアジーが王権を倒したと捉えることもできる。つまり、人権という制度によって、民衆を含んだ「境界」を定めることができ、その内部の人数の強大さ故に強力な軍事力を作り出されたのだ。同じことは、国家総力戦における国民国家の躍進においても言える。国民国家では「境界」は国家毎に定められてはいるが、それぞれの国家内では国民はそれぞれ権利を持つ一人の国民として認められている。だからこそ、国民にとって国家がアイデンティティの源泉になり得るし、国民が国家総力戦における戦力になるといえる。このような平等が軍事力を作り出したという背景によって、様々な社会運動が人権の範囲を拡大したとも捉えることもできる。(若干、拡大解釈なロジックな気もするが、)

つまり、虫の命が大切でない理由は、たとえ虫になんらかの権利を認めたところでなんの軍事力も生み出されないからである。権利、平等という、一見、弱肉強食と正反対にある思想が、軍事力という弱肉強食の中枢から権威付けされているとなると考えさせられる。ALFやシーシェパードといった団体が暴力に訴えるのもこういった背景から考えると本質的な抵抗活動といえるのかもしれない。

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