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おやさまたより

私の天理教修養科ものがたり パート5


   元一日というのがあります。
 

 卵が先か、鶏が先か、それは知りませんが・・とにかくこの世は始まり、人類が誕生し歴史が流れています。
 天理教・お道では、最初は泥海だったのを味気なく思われた親神が人間を作って陽気暮らしする様を見て共に楽しもうと思いつかれたのがその始まりとされています。

 そしてまた、その人間を宿しこまれたのが「ぢば」と言われる地点で、その証拠の甘露台を置かれていますが、それが本部神殿の中央でその一角だけは神殿の屋根がなく雨や雪が降ればそのまま降ってきます。今は仮に檜で作られていますが人の心が親神の思いにかなった時に石の甘露台が置かれいよいよ陽気暮らしの世が幕を開けることになっています。

 私は子供の頃に一度、母方の祖父に連れられて天理まで家族でいわゆる団参をしたことがありました。隣に住んでいた父方の従姉妹たちも同行して、奈良まで旅行ということだったのですが。

 私の記憶は奈良の若草山にあります。鹿が沢山寄ってきて、広い芝生で家族で輪になって座って弁当でも食べていたのでしょうか。それはそれは楽しい気分の記憶だったようです。
 しかし、一転天理の詰所に帰って来て食堂にいる私は腹を抱えて苦しんでいる記憶に変わります。今でもその暗くて広い和風の建物が目に浮かびます。
 祖父や家族はもちろん詰所の信者さんたちも心配し、恐らく御供散と言われる米の粒を飲まされてお授けをされたのではないだろうかと思います。でも、そこはおぼろげな記憶しかありません。

 子供心にその苦しみは悲痛なもので果てしがないように思われました。詰所の廊下は長く本当に長く思われました。部屋はいくつも廊下にそってありました。
 みんな大部屋に布団を並べて雑魚寝でしたので、昼間も畳んだ布団に頭を持たせて横になっていました。明るい日差しが窓から差していました。
 腹痛は時折楽になっても思い出したような波が襲ってきてうずくまっておりました。

 妹や従姉妹達は私に遠慮しながらも楽しそうに遊んでいました。私も楽になると、大事に持っていたドロップスの中にガラス細工のバンビを何度も何度も開けて見たり、また蓋をして仕舞ったりしました。
 本当に明るい光と濃い影のある記憶を今でも私はドロップスの缶にしまっているかのような気がします。

 「おさづけ」や御供散が効いたのか、日にち薬だったのか分かりませんが一日くらいして食欲も戻り、妹や従姉妹達と長い廊下を探検したり庭に出て遊んだりできるようになりました。

 その当時の湖東大教会の信者詰所は天理駅の近くにあって、木造でしたが風格のある建物だったと思います。
 湖東大教会は琵琶湖畔の八日市にあり、初代の大教会長さんは陸軍の歩兵連隊で訓練途中に宿泊していた奈良の旅館で、たまたま「おやさま」が沢山の信者に出迎えられて歩いておられたところに立ち会わせ、「ご苦労さん」と一声かけられた瞬間に身上や事情のわずらいもないまま信仰の道に入ったという人でした。

 私の所属する教会は、その湖東大教会部内の彦根分教会で、そこから布教に出られた先人が岐阜に入って近隣の付知分教会の生まれるきっかけとなり、同時期に母方の在所のある中の方村で美恵分教会を初められたというのが、系統の流れとなります。
 大方の信者は助からないと言われていた病気やどうにもならなくなった事情を「おさづけ」やお願い勤めなどのお助けによって助けられたというのが元一日となってるケースが多いようです。

 話は飛ぶのですが、後年結婚する時に妻は修養科に行けれなかったので長女が一歳ころに赤ん坊同伴で修養科に入りました。その時肺炎球菌が入って髄膜炎ということで高熱を出し、一週間が山だという医師の話を妻の電話で聞き飛ぶように天理に駆け付けたことがありました。
 子供の病気は親にとっては自分の命をかけてもと思うほどの事ですが、その時は天理まで何度も通って回廊拭きをしたり一心不乱に祈った経験があります。彦根分教会の会長さんも「おさづけ」に何度も来てくれて皆で回復を待ちました。後遺症もなく無事に修養科を終了し、家に連れて帰れた時の喜びは筆舌に尽くせないものがありました。

 私の初天理帰参のときの両親や祖父も同じ氣もちだったろうと思います。

 私が大学中退後の混乱の末に天理教の修養科に入学するため、たどり着いた天理の湖東詰所はその当時と同じ場所にありましたが、近代的な建築で一見ホテルような豪華な建物に変わっていました。春の終わり初夏の光の眩しい頃でした。

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