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【メタファー】「旅のラゴス」のメタファー読みと構造読み【構造読み】

はじめに

次に読む本を決めようと思ったときに、時々ネットで検索している。ある時どうしてもファンタジー小説が読みたい!と、「ファンタジー おすすめ 小説」と検索をかけて、いくつかのブログがヒットしたのだが、その中で紹介されていたのが「旅のラゴス」で、作者は筒井康隆だ。

kindleで購入して読み始めたのだが、とにかく面白かった。ジャンルの区分として「ファンタジー」で良いのか?どちらかというと「SF」ではないのか?という疑問は持ちつつ、それでも世界観と文体が持つ、「乾いた不思議さ」に随分魅了されて二晩で読み切ってしまった。その頃は大して読書量も多くはなかったが、その年に読んだ本の中では断トツに面白かったし、私にしては珍しいことに友人に薦めたほどだった。

先日ある古本屋に用があって、目当ての本を見つけたのだが、元々安いものだらけの古本屋で一冊ばかりの買い物では申し訳ない気がする。だったら一度に次に読む本も併せて買ってしまえばいいじゃないか。家から出る手間が省ける。と、棚に目を走らせると、どこかで見たタイトルだ。電子で持っている本を、紙で買う必要があるだろうか?いいや、これは紙で残しておきたいほどに面白い作品だった。だからついでに、と購入しておいた。

数年ぶりに読み返してみたわけであるが、一息に読み切ってしまった。その中でこれは典型的な「メタファー読み」が適応されると思った。ありがちな喩えではあるが、この作品では「旅」=「人生」という構図が成り立っている。物語終盤の章である「氷の女王」内にも、

「旅をすることによって人生というもうひとつの旅がはっきりと見えはじめ、」

新潮文庫P239

とあるように、作者は「旅」=「人生」という構図をはっきり意識しているし、単純に読めば読者はそのことを途中で理解できるようになっている。
まずは本作品の中心部分である、「銀鉱」「王国への道」の二つの章についてメタファーを考えていきたい。次にこの物語の主題とは何か?「構造読み」を元に読み解いていきたい。


メタファーとして

労働者時代

メタファーとは何か、日本語では「隠喩」と言い、何かが何かに直接的な表現を控えながら、例えられている状態のことを言う。

「銀鉱」という章は主人公のラゴスが奴隷狩りに遭い、とある銀鉱山で奴隷労働に従事させられるところから始まる。本来学者である彼は、銀と金を分離する手段を知っていたため、奴隷という状態を脱し、妻を娶り、周囲に奴隷であったことすら忘れらている。そんなある時、食料の買い付けを頼まれる。という展開で進むのだが、「人生」=「旅」というこの作品の構図に、「銀鉱で奴隷になっている」のは人生におけるどの段階なのかを当てはめれば、それは会社に勤めて働いている段階。つまり「労働者時代」だろう。

銀鉱は「企業」であり、ラゴスは本人の希望とはそぐわない、不本意な就職をすることになる。その中で頭角を現して、みるみる出世していくわけだが、「他の奴隷の扱いを改善してほしい」という彼の願いは通らず、むしろのちに多くの奴隷を死なせたり、更に過酷な労働に追いやったりする昇降機やレール運搬車の開発する進言は受け入れられていく。目先の利益を追求する進言は受け入れられ、長期的に安定した利益が望めるが利益が大きくはないない意見は却下される。ラゴスは自分が本質的に望む意見が通らない状況であり、そんな採掘業者、つまりは経営者に愛想が尽きていることだろう。これが長期的に安定した経営を行える経営者であればまだ違う結末もあったのかもしれない。大手を振って堂々と、そこにいる人々を幸せにして出ていく結末もあったかもしれない。しかしラゴスは食料を買い出しに行くふりをして銀鉱から逃亡してしまう。これは「退職」を示している。尤もこれは「愛想を尽かしたから」だけではなく、ラゴスの中にある「旅をして知識を得る」という使命感からも起こっているが、後述する。

学志と栄光の時代

その後、ラゴスは「王国への道」という章で海を南に渡り、「ポロの盆地」に辿り着く。目的は遠い祖先がこの星にやってきたときに持ってきた様々な本を読み、その知識を吸収することだ。ちなみに前章の「着地点」において、この世界は地球とは違う星であって、遠い昔に先祖がやってきたことや今では祖先の持っていた技術と知識は大半が失われているという成り立ちが説明されている。

メタファーに落とし込んだとき、企業を退職して自由になったラゴスは、「学ぶ」という自らの中にある使命に導かれて、大いに勉強する。学生時代は嫌いだった勉強も大人になってから学び直したくなることがある。今生きる世界であったり、社会であったりについてもっと理解したくなることは誰にでもあるだろう。そうしてラゴスは学志時代に突入する。それまもあった本質的な「学びたい」という欲求を大いに満たそうとしていく。あるいは「学ぶ」という事柄にこだわらなくても「自分がずっとやりたかったこと」という次元に落とし込んで考えてもよい。とにかくやりたかったことができる喜びに打ち震えるのだ。

その中でもコーヒーを作り出し、産業化して成功したことは誰にもわかりやすい成果として挙げられる。その成功によって、周囲の人間から全知全能だと思われ、信頼を大きな信頼を得てることに成功できた。また、その成果が物語後半においてラゴスの地元にも伝わっていることも明らかになり、彼の周囲からの評価を劇的に上げることに役立っている。つまり初期に成果があったことによってスターダムにのし上がっていく過程が描かれている。やはりラゴスには「やりたかった」ことの才能が有り、それが表出したということのなのだろう。ここから彼は益々研究と学問に打ち込んでいく。

その過程の中で、「ポロの盆地」は栄えていく。まずコーヒー産業によって栄えた後、ラゴスの研究を生かして大王国へと変貌していくのである。自身の成果によって周囲が栄えていく。これまでの流れをメタファーで例えて、さらに例示しやすく筒井康隆の自伝的に表すと、本来作家を志望していた青年が、作家で食っていくのは難しいと普通の会社に就職し、それでも心の中に作家になるという「使命感」のようなもの、自分の人生は作家として生きることに収斂するという感覚を持って働いていた。知識あるいは知性を評価され、出世して生活も安定していくわけだがどこかで作家的な生き方に対する憧れは変わらない。安定した現状の生活と憧れる作家的生活。この二つを比べたときに天秤は作家的生活に傾いた。仕事を辞め、比較的早い段階で作家としての才能が認められ、それは例えば芥川賞のような地元に聞こえるほど大きな成果だった。その後も自分が作品を発表するごとに出版社などの周囲は栄えていく。一方で自身はとにかく「やりたかった」ことをしているだけで周囲の状況には頓着していないといったところだろうか。

そう考えたときに物語の終盤、ラゴスが老人になってから、きっともう帰れないだろうことを踏まえても旅に出ようとしたところは筒井康隆にとっての理想的な老後、必要がなくなったら自然と消え去ろうという考えを表している。だからその部分にイマイチ具体性が乏しいような気がする。また、この作品の後半部分が短いのはそう言った理由からだろう。この作品は筒井康隆自身の、あるいはもうすこし一般化して、作家やクリエイターの人生を旅に例えた小説である。

無論すべてがメタファーとして何かに例えたり変換できたりできるわけではない。説明のしがたい章や部分は多い。しかしそれはこの作品がエンターテイメントとして捉えられるための要素だろう。特殊な能力を持った人間の存在や、この世界が地球ではなく遠い昔に人類が移住した星であることの開示など物語的にセンセーショナルな部分は多く、それは意外性をもって読者に捉えられ、面白みを感じてさらに読み進めていくだろう。ここにあえて作者からのメッセージを読み取るならば、いつの時代も、それが未来であっても、人生は変わらずに流れていくものだ。そのことを自らの経験も踏まえつつ伝えているのではないだろうか。

構造読み

構造読みと「クライマックス」

さらに「構造読み」という読み方を元に本作品の主題について考えていきたい。物語は大抵の場合、二項対立構造で成り立っている。多くの場合それは善と悪の二項で、わかりやすいのがアンパンマンの例だ。独り占めするバイキンマンという「悪」と、分け与えるアンパンマンという「善」が対立し、必ずアンパンマンが勝利する。基本的には「善」とされる側が主役となり、その視点から物語が展開される。マンガや映画を観ても多くの場合はそうした形になっているはずだ。もちろん例外は多くある。例えば映画「ジョーカー」は「悪」とされる立場が主役となり、その視点から物語が展開される。これは「物語のお決まり」としてのテンプレートから一見外れているように見えたり、あるいはテンプレートの応用として捉えてもよい。が、多くの物語がこの「構造読み」で読み解くことができる。物語を分析的に読むとき、非常に優れた方法の一つである。

「構造読み」で大切なのは、「起承転結」という物語の4段階からなる構造と「クライマックス」という物語が最も盛り上がり、対立した二項のどちらが勝利するかが決定するシーンの二つである。「クライマックス」においてそこで何と何が対立し、どのような決着を迎えたのか、がその作品の主題を決定づける。

登場人物や、一つ一つの言葉や行動がどのような思想的・思考的背景を持ち、それが何の象徴として存在しているのか、そしてどのような場所でどのように対決するのかを考えることが大切だ。今回の対立と対決は二度存在している。それは先にも述べた「銀鉱」の終盤とこの物語の最後の章である「氷の女王」においてだ。

クライマックス➀「銀鉱」

「銀鉱」における対立とは「現在の安定した、おそらくより豊かになるであろう生活」と「安定するかはわからないが、元より理想であった作家としての生活」のどちらを取るかであり、前者はラゴスの妻であるラウラがその象徴であり、後者はラゴス自身がその象徴である。以下にそれぞれ象徴的なラウラのセリフとラゴスのセリフを挙げる。

「(前略)銀鉱に戻りましょう(中略)銀鉱が私たちの者になるわ。奴隷や女奴隷はみんなわたしたちの味方じゃないの。乗っ取ってしまえるわ。わたしたちの手で銀鉱の経営ができるし、一生幸福に暮らせるわ。あなたもわたしも、奴隷の身であれだけ気楽な生活ができた才覚を持っているのよ。ふたりでやれば、もっともっと幸福になれるわ」

新潮文庫P106

「旅をすることがおれの人生にあたえられた役目なんだ。それを放棄することはできないんだよ。そして、君をつれて行くこともできない」

新潮文庫P104

こう見るとラウラの提案が比較的堅実であること、逆にラゴスの考えが具体的でなく、謎の強い使命感を帯びていることが見えてくる。その後若干の言い合いの末、翌日港で別れることになるのだが、ラウラはラゴスが寝ている間に銀鉱に戻り、追ってを差し向けようとする。そのことを察したラゴスは急いで港へと向かい、船に乗り込んで逃げ切ることができたのだった。

この部分において他の大衆的な作品と違うのは明らかに盛り上がりに欠けるということだ。本来こうした抽象的な内容同士が対立する場合は主人公の内面の葛藤として描かれることが多いが、ここではあえてこの二人を対立させている。ラゴスが学びに対する「使命感」がとても強いキャラクターとして設計されているという部分もあるが、ラゴスが一片の迷いも見せずに「現在の生活」を捨て去ることでより強い解放感と銀鉱に対する強い嫌悪感を読者に伝えている。また、ラゴスの旅を続けることへの執着が強く印象付けられる。そうした点で作者にとって内面の葛藤を描くことよりも価値があったのだろう。

クライマックス②「氷の女王」

また、「氷の女王」においての対立は「自由な旅」と「不自由な家」とでも言おうか、別の定義づけの仕方もあるだろうが、その二つの対立である。ラゴスは故郷に戻ったのち、彼の一族が創設した学院の学長に推薦する声に推されてしまう。しかし彼はそのことを窮屈に感じはじめ、「旅に出たい」という気持ちを再び抱き始める。さらに若き日に恋したデーデという女性が絵描きによって北の地で描かれていることを父の書斎で知り、在りし日の思い出を求めて旅立つことを決めたのである。

この場面においても対立は際立って描かれない。読者か感じ取るのはむしろ自らの考えを疑わない、「不惑」といったような老練さである。ここにもラゴスの考えに対する反発としての女性の存在があり、それはラゴスの兄の妻で幼馴染みでもあるゼーラだ。彼女がラゴスの旅立ちを察した、ときのセリフをすべて挙げると、

「お願い。どこへも行かないで」「いいえ。あなたは帰ってこないわ。(攻略)」「とめても無駄のようね。でも、戻ってきてほしいわ」

新潮文庫P241

この部分を読むと、彼女の反発が大きくはないことが見て取れる。この二つのクライマックスの共通点として挙げられるのが、どちらもラゴスの意思に対立する女性が存在することだ。そう考えると、この作品における「女性」という存在は対立させるため、「旅を続けること」に対する反発する存在として、作者が意図して配置したのではないかと思える。ラゴスの中の内面的な葛藤を表出化しているとも言える。だからこそラゴスの内面には葛藤が存在せず、「旅をする」という使命感の強さだけが残っている。そしてこの場面においてゼーラの反発の小ささはラゴス自身の感情のコントロールの上手さ、迷いのなさ、欲求への素直な気持ち、まさに老練と呼べるような「不惑」さ、というものを作者の理想として感じ取ることができるのである。

この作品のテーマは何かということを二つのクライマックスから見て取ろうとすると、それは「目的をもって生きることの魅力」あるいは「面白さ・素晴らしさ」とでも言うことになる。旅とは生きることであり人生だ。そう考えたときに一つ所に安定しているよりも、旅を続けて目的であるどこかに進み続けていることは面白い。その素敵さこそ作者の伝えたかったことであり、それに共感できる読者にとって、この作品の魅力の根幹として存在しているのだろう。

おわりに

長ったらしくて、自分の論がどこに着地するのかわかったもんではない。結局2週間ほど時間がかかってしまっているので、論点のズレがあるかもしれないことをお詫びします。
本当に面白い小説でメタファー的に分析した解釈ができたときにハッとすることができたし、構造読みを適応することもできたので良しとしたいと思います。
作品の良し悪しを評価する批評としての形を成しておらず、むしろ感想ではとも思いますが、この作品を読み取って伝えたかったことが伝えられているので一応良しとしたいと思います。

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