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モードの歴史vol.3 オートクチュールからプレタポルテへ〜モードのさらなる近代化〜

こんにちは、lilcatです。
今回もモードの歴史についてのまとめの続きを記事にいたします。

1960年 ブランド「イヴサンローラン」始動

デザイナー「クリスチャン・ディオール」の死後、21歳という若さでクリエイティブ・ディレクターを託されたのが「イヴ・サンローラン」です。

イヴ・サンローラン

デザイナー「ムッシュ イヴ・サンローラン(Monsieur Yves Saint Laurent)」
1936年、アルジェリアの港町に生まれる。
父親が映画館のチェーンに所属していたことから裕福な家庭で育ち、母親の後押しから17歳でパリオートクチュール組合の学校に3ヶ月コースで入学。
コースが終わる頃にデザインコンクールに「カクテルドレス」という作品で応募し、ドレス部門最優秀賞を受賞。同時期に「カール・ラガーフェルト」がコート部門で受賞。
このコンクールがきっかけとなり、1954年に「クリスチャン・ディオール」に迎え入れられる。
しかし、そのわずか3年後の57年にディオールが死去。
ディオールの遺志により、ディオールのクリエイティブディレクターに就任する。

1954年にディオールのメゾンに入ったそのわずか3年後にディオールを託されたイヴ。
そしてデザイナーに就任したその翌年に初のパリコレクションで「トラベラーズ・ライン」を発表します。
このコレクションはニーマン・マーカス賞を受賞するほど好評ではありましたが、その後のコレクションではストリートスタイルを取り入れたコレクションを打ち出し「ディオールの良さ、エレガントさがない」と批判を受け、イヴの心はナイーブになっていきます。

さらには1960年にアルジェリア戦争に徴兵され、ディオールを解雇されてしまいます。
このことがきっかけで彼はうつ病を患ってしまいます。
もともと生まれつきうつ気味の体質でゲイセクシャルでもあり人から理解されなかった彼からすればディオールでの数年間はとても辛い時期だったと言えるでしょう。

しかし、徴兵された一年後イヴは恋人であった「ピエール・ベルジュ」を経営に招き、1962年に自身のオートクチュールメゾン「イヴ・サンローラン」を設立します。
以後のコレクションにて「モンドリアンルック」を発表し、新たなエレガントなモードのスタイルを提案します。
その中でもイヴ・サンローランで最も有名なデザインが「スモーキング=タキシード」。
これは男性用のタキシードをアレンジし、女性用のスーツに仕立てあげたもの。

このことから、ガブリエル・シャネルが女性を解放したのならば、イヴは女性に武器を与えたと解釈できます。

60's イヴ・サンローラン 
モンドリアンルック

66's スモーキング=タキシード


60's プレタポルテの誕生

イヴ・サンローランがデビューし、スポーティミックスのルックを打ち出したり、同時期にバレンシアガで経験を積んだデザイナー「アンドレ・クレージュ(Andre Courreges)」がブランド「クレージュ」を立ち上げ、「ミニスカート」と「幾何学ルック」を発表。
このことにより、「実用性の高い洋服を」という風潮が現れ始めます。

音楽の業界ではロックバンド「ビートルズ」の登場からロックがブームとなり、音楽カルチャーから影響を受け、そのスタイルを取り入れた街中の若者のファッションに注目がされていきロックンロールやヒッピーなどのストリートファッションがトレンドになっていき、一点もので高級なオートクチュールはますます廃れていきます。
ここでオートクチュールにかわり、新たなコレクションが生まれます。
それこそが、「プレタポルテコレクション」です。

プレタポルテとは、すぐ着れる洋服(既成服)を指す言葉でフランス語で「準備が出来ている」という意味のプレ(pret)と「着る」という意味のア・ポルテ(a-porter)を合わせた造語で、これまでの既成服とは打って変わって、大量生産されてはいるが上質な既成服を発表するコレクションが開始します。

プレタポルテコレクションを始めに発表したのは、エルザ・スキャパレリやディオールでの経験のある「バブルドレス」や「ヌード・ルック」で有名なデザイナー「ピエール・カルダン」、その後もイヴ・サンローランがプレタポルテアイテムを販売するライン「イヴサンローラン リヴ・ゴーシュ」をオープン、「クレージュ」もプレタポルテに参加し始めます。

このように様々なブランドがオートクチュールからプレタポルテに移行していく中、1968年にバレンシアガが「プレタポルテを発表するには年をとり過ぎた」という言葉を残し、デザイナーを引退してしまいます。


1970年 フォークロアとデザインとパンクと 高田賢三、三宅一生、ヴィヴィアン・ウエストウッド

オートクチュールは廃れ、世間がプレタポルテを着るようになった1970年代。
「ジミ・ヘンドリックス」の登場やビートルズが9枚目のアルバム「マジカルミステリーツアー」にてサイケデリックという新たなジャンルを開拓したことによって「ヒッピーカルチャー」が大流行し、「タイダイ柄」がトレンド化します。

1969年 「ウッドストック・フェス」にて  ヒッピーファッション


そしてプレタポルテコレクションで初めて日本人デザイナーがデビューを果たします。

高田賢三

ご存知ない方はいらっしゃらないとは思いますが、彼の名前は高田賢三。ブランド「KENZO」の創設者です。
彼は、イヴサンローランと同じく70年代のプレタポルテコレクションを引っ張っていく重要人物です。

デザイナー「高田賢三」
1939年、兵庫県生まれ。
実家が旅館を経営しており和服の女性に囲まれる環境で育つ。
姉が洋裁を学んでいたことから自身も洋服の製作への興味を示したが、当時男性を受け入れる服飾学校がなかったため神戸外国語大学へ入学するも在学中に文化服装学院で男子生徒を募集するというニュースを聞き大学を中退し、文化服装学院に入学。
1960年、文化在学中に「装苑賞」を受賞。
61年に文化服装学院を卒業。
卒業後に一度就職するが65年に単身でパリへ留学。

69年に「ジャングル・ジャップ」と自ら差別用語を用い、パリでブティックをオープン。自身のブティックで、小規模ながらも1970年春夏コレクションを行なう。

お金がなかったので日本から和服の生地を取り寄せて洋服を制作したが、そのことが功を奏して、着物地のワンピースが「ELLE」の表紙を飾る。
1970年にてパリコレクションデビュー。

高田賢三さんの経歴はこんな感じなのですが差別用語を用いて自身のブランドを設立するところなどなかなか攻めたアイデアを持ってらっしゃる方です笑

ですが、そのアイデア力がとにかくすごくて、新しいものを食わず嫌いせず多く取り込みモードの既成概念を打ち砕いだ方で、その洋服は花柄やカラフルな色使い、「フォークロア」と呼ばれる民族衣装からインスピレーションを得たデザインやミリタリーなど多様なスタイルをプレタポルテコレクションにて提案しました。

70's KENZO フォークロアスタイル

そして、同じくしてパリコレデビューを果たした日本人デザイナーがもう一人...

三宅一生

issey miyakeデザイナー「三宅一生」

広島県広島市出身、高校を卒業後東京へ上京し多摩美術大学図案科へ入学。
大学在学中、日本で初めて行われた世界デザイン会議で「衣服デザインが含まれないのはなぜか」と投書し、服をファッションではなく、デザインとして捉えた。
ファッションクリエイションの登竜門である装苑賞を2回受賞。
美大卒業後、第1回コレクション「布と石の詩」を発表したのち、フランス、パリに渡り「ギ ラロッシュ」や「ジバンシィ」などメゾンのアシスタントとしてデザインを学び、68年にはニューヨークへ移り、ジェフリービーンのもと経験を積み71年のニューヨークコレクションにてデビュー。
73年にパリでプレタポルテコレクションを発表。

高田賢三と70年代のプレタポルテ黎明期で活躍した日本人デザイナー、三宅一生。
三宅一生さんは竹素材のバンジーワイヤーを使ったアイテムや、和紙などの布ではないなにかで洋服を制作するのが得意なデザイナーです。

(三宅一生の細かい概要は過去に一度まとめた記事が載ってますのでよければチェックしてみてください‼️)

三宅一生は洋服をファッションとしてではなくデザイン、アートとして考えた第一人者ということもあり、普通ではありえないデザインや素材を使ったコレクションを発表し、高田賢三と共に世界中に大きな影響を与えたデザイナーの一人です。


そして数年の時は流れ、場所はパリからロンドンに移ります。
イギリス・ロンドンでは当時カラフルなアイテムを使ったファッションが流行していて、男性はスーツを取り入れた「モッズ」からバンド「レッドツェッペリン」や「テヴィド・ボウイ」の登場によりグラムロックのスタイルやサイケ色の強い派手なセットアップへ、女性はミニスカートが主流となり、髪型はビートルズヘアーというムーブメントが巻き起こっていた頃、ある女性デザイナーが登場したことにより、新たなカルチャーが誕生します。

ヴィヴィアン・ウエストウッド

そう、イギリスのブランド「ヴィヴィアン・ウエストウッド」のデザイナー「ヴィヴィアン・ウエストウッド」です。

創業者ヴィヴィアン・イザベル・スウィア(Vivienne Isabel SWIRE)。1941年4月8日、イギリスのダービーシャー生まれ。
絵が得意だったため画家志望だったが、生計を立てるためアート専攻の教師になるために勉強をする。

2児の母であったが、「ビートルズ」のバンドTやミニスカートを着て有名になるモデル「マリー クワント」の影響を受けて大学に再入学して新しい時代の流れに押された形で決意した。
大学時代に「マルコム・マクラーレン」に出会い、反体制派の思考に影響を受ける。

1971年にマルコム・マクラーレンとともに「レット・イット・ロック(LET IT ROCK)」というブティックをオープンさせる。
ショップ開設当初、マルコムがデザインを担当していたが、あまりに前衛的なデザインだったため生産を引き受ける業者がいなかったため、その後はヴィヴィアンがデザインを担当するようになる。

72年、店名を「Too Fast to Live, Too Young to Die」に、74年には「SEX(セックス)」に、76年には「Seditionaries(セディショナリーズ)」に変更。

マルコム・マクラーレンが、ショップ「SEX」に出入りしていた若者に、ヴィヴィアン・ウエストウッドのデザインした過激な服を着せて反社会的なロックバンド「セックスピストルズ」としてデビューさせたことにより、「パンクカルチャー」のムーブメントを引き起こす。

ヴィヴィアンは70年代のロンドンにてアバンギャルドなショップを立ち上げ、マルコム・マクラーレンが「セックスピストルズ」をプロデュースし、ヴィヴィアンのデザインを世間に売り込んでパンクファッションを生み出し、世界中に名を轟かせました。

ヴィヴィアンはピストルズのブレイクもあり、アングラカルチャーを好む若者から絶大な人気を誇っていましたが、79年にブティック「ワールズ・エンド」をスタートしファッションの歴史を研究したことがきっかけとなり、イギリスのクラシックスタイルとトラディショナルの融合したデザインを行い始め、表舞台へとシフトします。

その後、83年にパリコレクションに参加してからのヴィヴィアンは勢いを止めず、「British Designer of the Year」を3度も受賞するなどイギリスを代表する国民的デザイナーとなります。

セックスピストルズのメンバー

79年 「SEX」店舗にて



高田賢三と三宅一生の日本人デザイナーが登場し、イギリスではパンクが大流行した70'sのファッションカルチャー。

また時代は変わり、80年代へ進みます。
80年に入ったその直後、パリコレクションにて世界を震撼させるある出来事が起こります。

さて、その出来事とは、、、


最後に

今回も長文お読みいただきましてありがとうございました!
次回も続きから投稿いたしますのでお楽しみに!

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