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モードの歴史vol.4 黒の衝撃〜日本人デザイナーの挑戦〜

こんにちは、lilcatです。
今回も前回に引き続き「モードの歴史」について掲載していきます。

さて、前回の1960年から1970年の間に音楽カルチャーから派生した「モッズ」や「パンク」「ヒッピー」などがムーブメントとなり、オートクチュールが廃れ、一点ものの高級品から普段使いの出来る上質なものを求めるプレタポルテファッションにシフト、パリコレクションでは「三宅一生」や「高田賢三」などの日本人デザイナーが登場するなど新たな時代が始まりました。


1980年 ポストモダン DCブランドの流行

70年代が終わりを迎え、1980年になります。
この頃に流行った音楽は伝説的バンド「クイーン」やキング・オブ・ポップス「マイケル・ジャクソン」

この頃の日本は、1973年「第四次中東戦争」や1979年「イラン革命」の影響で起こったオイルショックによる不況で石油がストップ、日本経済は大打撃を負ったものの、政府・日本銀行の金融、財政政策による景気刺激が主因となり高度経済成長を成し遂げ、景気は盛況、「バブル」に突入します。
その結果、「大量生産」と「消費」を繰り返し、製品で満たされ豊かな暮らしができるようになったことで、ファッションでは「実用性から他とは違うもの、個性のあるもの」を人々は求めるようになります。

(これを「ポストモダン」という。)

そんな中、ポストモダンのバックグラウンドから他との差別化を提案する「DCブランド(デザイナーズ&キャラクターズブランド)」が流行化します。
1970年代後半から動きだし、1980年に流行となったと考えられます。
「DCブランド」は今現在の「ドメスティックブランド」の前身となるもので、原宿のマンションの一室からブランドを立ち上げる「マンションメーカー」やパルコなどが新鋭ブランドのためにテナントを用意するなど経済景気がよくなったこの頃の日本はファッションにかなり多感になっていたと言えるでしょう。

「DCブランド」では主に、「ピンクハウス」「ニコル」「TAKEO KIKUCHI」「コムサ・デ・モード」などが人気のブランドでした。
これらのブランドはロンドンのモッズやパンクなどのカウンターカルチャーから生まれたファッションとは全く違うもので個性を生み出し、販売していました。

また、この「DCブランド流行」の先駆けとなったのはブランド「VAN」。
「VAN」は60年代から70年代に日本で大変大人気だったブランドでアメリカンスタイルをベースにしたボタンダウンシャツに三つボタンブレザー、チノパンにローファーという「アイビールック」を打ち出し、「みゆき族」というムーブメントを巻き起こしました。(銀座・みゆき通りに屯していたことから命名されたストリートカルチャーである。)

1960年代 みゆき族 

1980年代 ピンクハウス

1980年 アバンギャルド 黒の衝撃

日本経済が景気を取り戻してきた1980年初頭。
この時、二つの日本人デザイナーブランドがパリコレクションにてデビューを果たし、世界に衝撃を与えます。

川久保玲

彼女の名前は「川久保玲」
ブランド「コムデギャルソン」の創設者です。

デザイナー「川久保玲」
「株式会社コム デ ギャルソン」の創設者である。
1942年、東京生まれ。
慶應義塾大学文学部哲学科卒業後、旭化成に入社し、繊維宣伝部でスタイリストを経験。
退職後、フリーランスのスタイリストとして経験を積んだのち、独学でデザインを学び「コムデギャルソン」の婦人服の製造、販売を開始。
1973年に「株式会社コム デ ギャルソン」設立。

1975年に東京にてコレクションを発表。同年表参道にて直営店である青山店をオープン。
1978年、メンズライン「コム デ ギャルソン・オム(COMME des GARÇONS HOMME)」がスタート。

日本で成功を収め、81年パリ プレタポルテ・コレクションでパリコレデビューを果たす。

山本耀司

彼は「山本耀司」
ブランド「yohji yamamoto」のデザイナーである。

デザイナー「山本耀司」
「株式会社ワイズ」の創業者であり、ブランド「ヨウジヤマモト(yohji yamamoto)のデザイナー。
1943年、東京生まれ。
父を戦争で亡くし、母親の営む洋装店で育つ。

慶応義塾大学法学部卒業後、母親が元学生であったこともあり、文化服装学院に入学。
文化学生時代の69年に「装苑賞」「遠藤賞」を受賞。
卒業後、「株式会社ワイズ」を設立。
1975年にコムデギャルソンらと東京でコレクションを発表。
後に、パリへ渡り、81年プレタポルテ・コレクションにてパリコレデビュー。

81年に同時にパリへデビューした二つの日本人デザイナー「川久保玲」と「山本耀司」。
この二人は当時タブーとされていた「黒」を全面的に押し出し、さらにはシワ加工や古着のような生地、穴の空いたものを使用し、世界に衝撃を与えて以来、「黒の衝撃」「東からの衝撃」と呼ばれる伝説的コレクションを生み出しました。(タブーとされていた理由は「反抗」「禁欲的」などの意味合いがあったためとされている)

しかし、このコレクションは賛否両論であり、フランスのファッション誌であるフィガロは「これは広島だ、それも情事ぬきの。未来を暗くするボロ切れのスノビズム。」(繊維新聞参照)と評価し、「広島シック」「ボロルック」と批判されることもありました。

しかし、その後のコレクションから、山本耀司は自身のブランドのコンセプト「反骨精神」を掲げ、貫き通し、川久保玲はブランドのコンセプトは崩さず、トレンドを取り入れたクラシックでアバンギャルドなコレクションが人気を呼び、世界的に全身を黒のアイテムで着飾る「カラス族」がブームとなりました。




そして特に、川久保玲のデザインは「脱構築」といわれ、今までの西洋のファッションスタイル(かつてディオールが打ち出したニュールックなどの体型を考慮したもの)とは全く異なっていました。
洋服のシルエットはゆったりとオーバーサイズであり、洋服のデザインの既成概念を壊しました。
そして、モードの歴史に基づき、アシンメトリーや変形など様々なデザインを解体、研究しました。

1980年 鴉族

1980年 ファーストコレクション
ボロルック

そして、1985年にはISSEY MIYAKEの「三宅一生」を代表を務め、「松田光弘」「森英恵」「山本寛斎」に加え、「川久保玲」と「山本耀司」が幹事に就任することで「東京ファッションデザイナー協議会(CFD)」を結成。同年11月に日本のプレタポルテコレクション「東京コレクション」を開催します。

左から 「川久保玲」「松田光弘」「三宅一生」「山本寛斎」「山本耀司」「森英恵」


川久保玲と山本耀司についてはここでは語りきれないほど奥が深いのでまた機会があればまとめたいと思います。


1980年後半 ボディコンシャス ジャン=ポール・ゴルチエ

このブームのきっかけとなったのは1984年、「アズティン・アライアン」の春夏シーズン。
ボディにフィットし、ミニ丈のスカートのこれまでのボディコンスタイルとは異なるセクシーな「ボディコンシャス・スタイル」を発表したことが要因です。

これらのスタイルは主にスーパーモデルから絶大な指示を得て、「ナオミ・キャンベル」や「シンディ・クロフォード」などが着用したことにより大人気になりました。
また、アライアンのショーにノーギャラで良いから出演したいと訴えるモデルも多かったようです。
そのボディコンブームは日本にも渡り、ディスコに通う若者がきたことから「ジュリアナ東京系」「ボディコン女子」と評されるようになっていきます。


ナオミ・キャンベル ボディコンシャス

当時のジュリアナTOKYO


スーパーモデルがボディコンシャスを着用し、世界的にタイトシルエットが流行していた頃、フランスにて日本とゆかりのある新たなデザイナーがデビューします。


ジャン=ポール・ゴルチエ

「Jean Paul Gaultier(ジャン=ポール・ゴルチエ)」
デザイナー「ジャン=ポール・ゴルチエ」
1952年、パリ郊外生まれ。
両親は会計士であり、映画のワンシーンに感化され、デザインを独学で学びファッション業界に入る。

プレタポルテの祖でありライセンスビジネスの先駆者「ピエール・カルダン」のメゾンにて修行した後、「ジャック・エステル」「ジャン・パトゥ」などで経験したのち独立。

1976年ブランド「JEAN PAUL GAULTIER」を立ち上げ、プレタポルテコレクションにてデビュー。
周りのブランドでは美しく華やかなモデルが起用される中、独特で個性的かつ美しいとは言えないような顔立ちのモデルをショーに起用し「ファッション界の異端児」とよばれていた。

アバンギャルドなデザインを得意とする。

ゴルチエについては前にまとめた記事がありますのでよければご覧ください。

ゴルチエも80年代を代表するデザイナーで、前記した通り、アバンギャルドなデザインを得意とし、メンズスカートやボンテージ・ファッションといった性別を超越した「ジェンダーレス」をコンセプトにすることもあります。
また、これは極めて前衛的なことで、「ファッションに性別なんて関係ない」というファッションの自由やLGBT問題に関しての訴えとしても考えられると思います。

また、そのアバンギャルドなデザイン性は有名アーティストにも支持を得て、「マドンナ」や「マリリン・マンソン」の衣装のデザインも行っております。


スカートを履くゴルチエ


僕が1980年代を一つのワードで括るのであれば「アバンギャルド」だと思います。
バブル経済になり、消費が拡大していき消費者が求めるものはこれまでのコンサバティブなものから他の洋服との差別化ができる新しいデザインに変わっていきました。
これが原因となり、今のドメスティックブランドの前身である「DCブランド」に火がつき、「コムデギャルソン」「ヨウジヤマモト」「イッセイミヤケ」筆頭に、日本のファッションを世界に知らしめることができたのです。

この文化の変化の流れを見ると、80年代はモードの概念が激しく揺れ動いた時代と見れ、デザインの自由性を高めたと言えるでしょう。


そして、1990年に時代は変わり、ベルギーから「川久保玲」に触発された6人のデザイナーがデビューします。
さて、そのデザイナー達とは一体...



最後に

今回も長文お読みいただきありがとうございました。
次回も20世紀のモードの歴史についてまとめていきますのでお楽しみに‼️

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