『メタバース不倫』 Anh.21『なんという暗い闇が』

 ―第4場―
『妖光と月華の水鏡』


 ―2022.2.22 37歳―
 純麗子すみれこは疲れ果てた状態で、顕在意識の御座所を明け渡した。譲二が当直なのをいいことに、長い間“Virtual-Earth”で過ごしたのだろう。

 彼女から流れ込む脳内映像が示すのは、先程まで“Virtual東京ソラマチ”のすみだ水族館に優羽ゆうと居たという事。
つまらない……と頭の中で声がして、悪い事は起きてほしく無いと思う反面、何処か彼女の不幸を望んでいる自分に気付く。
譲二への歪んだ愛により生成された、嫉妬という黒い感情が心の淵で渦巻くのだ。

 彼女が倒れた原因は、私が睡眠時間を奪ったからなのか?メタバースの世界で譲二を裏切り、快楽に溺れていた天罰だろう?と、腹の底で責め立てながら、彼女の記憶を反芻する。

「うー寒い……」と呟く優羽に、
「そうですか?実際は何処にいるんですか?」と、“Virtual-Earth”では禁句とされている質問を、彼女は投げ掛けた。
「中野駅前のインターネットカフェ」

 普段なら『そうですか』で終わらせたはず――。
愚痴の掃き溜めにされる気配があれば、すぐに会話を切る癖があるからだ。
だったらこうしよう、それならばああしようと、白黒付けたがる彼女は、答えが出ないやり取りが苦手で、生産性の無い塵屑ごみくずのような時間だと酷く嫌う。
「御自宅の最寄駅じゃないですか」などという、呼び水になる返しをするなんて滅多に無い事だった。

「そうなんだけど、帰るのが億劫でさ。
妻とは互いに30後半で結婚したから、早く子供を欲しがってて。『今日は排卵日だから早く帰って来て』って、結婚して3年、毎月言われるんだ。
ノイローゼなのかな……、圧が凄くて。去年ぐらいからは排卵日辺りにしかしてない。
終わったらすぐティッシュで押さえて逆立ちだよ?ムードも何もない、ただの子作り。
最近は、もう、……できない時もあって。
あっ、ごめん。こんな話」

「いえ。私も、夫との行為には集中出来ないんですよ。今の私の姿を見られるのが、不快で堪らないんです。若い頃の顔や身体のままでいられないのは当たり前なんでしょうけど、色々な事が気になって仕方なくて……。」と、続いて珍しくこぼした。
取り留めの無い話を許容できたのは、目の前を浮遊する美しいクラゲに心癒されていたからなのだろうか。

「アバターじゃないキミも、十分20代に見えるけど……。まぁ、言われ慣れてるだろうし、僕が言う必要もないね」

「注射や糸で、エイジングケア治療してるんですよ……」

 純麗子の反応を見た優羽は、自己否定は結局本人にしか分からない問題だと言葉を止める。
二人はそのまましばらく何も話さず、ただクラゲを見つめ続けた。

「あの……、先日話してた新デバイスによる症例報告ケースレポートの件ですが、」と、彼女は唐突に切り出す。
「――やはりアバターと一心同体になれるという有用性が、新たな病を誘発しているのは間違いないようです。
肉体・感情・思考・感覚などから自己の主体性が失われ、取り巻く外界も、自身の存在も、現実味を持って確かだとは感じられなくなったという訴えもあります。
技術発達により急速にVRは高度化しましたが、VRが生み出す精神障害・脳障害の研究については、並行して進んでいないのが現状です」

「でも報告が上がっているなら、再検証するはず」

「はい。急遽執り行われた追加実験では、健康な人のみを対象としており、病気や障害を抱える人は調査対象外だった事が最近分かりました。
けれどVRの利用規約に、病気や障害を理由に使用を制限する法的根拠は無い。これだと成立しているとは言えません」

「元々何らかの疾患があった場合に誘発すると?」
ようやく優羽はクラゲから純麗子に視線を移した。

「今のレポートで断定は出来ません。
ただ症状が進行した場合、アバターに自身の感覚ごと取り込まれる可能性も示唆され始めています」

「なんでそんな事に――?」
優羽は頭を抱え、近くのベンチソファに座り込む。純麗子は彼の前に立ち、話を続けた。

「例えば、役と一体化してしまう憑依型俳優のように、アバターに入り込みすぎて戻ってこれなくなるということもあるようです。
一流の憑依型俳優にはメンタルケアをしてくれる『アクティング・コーチ』が必ず付きますが、VRサービスには、メンタルサポートが組み込まれていないのが実状です。サポートの在り方について考えるフェーズに入ったのかもしれません」

「そこまでの整備が必要かな?それはなかなか難しい事になりそうだが……」

「必要かもしれません。実際、別の存在になり切ろうとし、上手く切り替えていたつもりが自己を保てなくなった挙句、次第に現実での自分が誰だか分からなくなり別人格を生み出していた――、なんてケースもありますからね。

 離人症性障害、解離性同一性障害、境界性パーソナリティ障害、統合失調症、自閉症スペクトラム症、離人感現実感消失症……等々に症状が見られる事例も増えているようですし。流通させる以上、責任があります」

「僕らが目指してるVRの発展は、間違っていたのか?」

「そうとも限りません。くだんの病は、心の病なのか脳の病気なのか捉え方があやふやなまま認識され続けてきた面もあるのですが、VRの発展により、発症するしくみの解明や、解明に基づく診断や治療の開発に繋がるとの見方もあるんです」

「それが聞けて良かった。険しい道だが、メンタルサポートについて検討できるよう、前向きに働きかけていこう」
なんとか笑顔を取り戻した彼に、純麗子はお辞儀をした。
「ありがとうございます。では良い休日を――」

「あっ、待って!あのさ……。キミが倒れる前の日だったかな。豊洲のRayのカフェに僕もいたんだ。
キミは、永瀬といたよね?」

 純麗子は動揺を上手く隠せたか気になりながらも、努めて冷静に切り返す。
「ええ、永瀬さんと行きました。森崎主任はどなたといらしてたんですか?」

「えっ。あ……、僕は一人で」と彼は言ったが、男性一人で入るような店ではない。
だが純麗子は優羽をとがめる立場にない事を、重々理解していた。

「そうでしたか、またいらして下さいね。では……」



 この物語は、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。作者の人生とも全く交差しない、詮索謝絶の完全なるフィクションです。

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