子どもたちのための「#8月31日の夜に」を大人の辛かった回想に利用してしまっていないか??

 もう日付が変わってしましましたが、ある意味まだ8月31日の深夜なので投稿します。いま死にたい子どもに、そうした子どもを助けてくれそうな大人にも届くことを願って書いています。

 9月1日に子どもの自殺率が突出して高いということを世間が認知しはじめて、8月31日には子どもの抱える問題と向き合う特集など組まれたり注意喚起や自殺防止が叫ばれたりするようになってもう数年です。

 数年経っても未だに改善できていない現状に、大人や教育現場への不信感が募ってしまいます。
 そういう水無月自身も結局こうして文章で呼びかけることしかできない自分にもどかしさを感じています。

 そしてこの「#8月31日の夜に」という運動の本質を分かっていない大人が多すぎる気がしてなりません。

 ハッシュタグからどんな呼びかけや嘆きが発信されているのだろう、と読んでみるんですが、本当に子どもたちに響くものがあるのか? と。

 単に8月31日にあったことを「~なことをして充実した1日だった!」だなんて綴って、このハッシュタグの意味を全く理解していない人が思った以上に多く散見されます。そういった投稿は死にたいと悩んでいる人にとって冷酷な投稿にしか見えません。そんなキラキラした日常とは対極にいるのですから。

 一方で、生きることを悩んでいる子どもに向けて真剣に訴えている記事もしっかりあります。
 自身の辛かった学校時代や家庭環境など実際の体験を綴って「辛いよね、わかるよ」という寄り添ってくれるような文章です。水無月もこういうタイプの文章を書いていました(書いてしまっていました)。

 この手の投稿の難しさにいま悩んでいます。

 というのも、一歩間違えば「辛かった体験語りたいだけじゃないの? 語って満足していない?」「不幸自慢したいわけ?」とも捉えられかねないのではないかと……。
 もちろん、似たような体験を読むことで、自分だけが苦しいんじゃないんだ、と気持ちが楽になる場合もあります。それで死ぬのをとどまってくれたら幸いだと思います。

 でも、いじめや学校に行きたくない、家庭環境のひどさ、といったものを回想していくことで、過去の自分への慰めにしていないか、と。

 人それぞれ、辛い過去はさまざまで、自分を慰めることは大事なことだとわかっています。水無月も過去のことを綴ってその時の自分を慰めている部分があるので人のことを言えないのは重々承知しています。

 ただそれがいま死にたい現実に置かれて切実に苦しんで訴えている子どもにどれほど響くのか届くのかは別問題だと思いますし、そのことを分かったうえで発信していくことも重要なことなのだろうとこの頃は考えています。


 これまでは抽象的に「逃げていいんだよ」なんて書いていましたが、
 「具体的にどう逃げればいいのか」が抜け落ちているんですよね。

 親が理解してくれるのなら打ち明けて学校に行かない選択をすればいいかもしれない。でも親さえ理解してくれない子だって多い

 相談窓口に電話したり、
 学校の保健室やカウンセリングルームに駆け込んだり、
 近年では学校行きたくない子に向けて図書館や美術館・博物館・動物園などがおいでよ、と呼びかけたりしていますね。
 このほかにも方法はたくさんあるはず。

 こういった行動で自分を護って欲しいです。

 そして大事なことは、大人が子どもの声に耳を傾けて理解して欲しい。
 せっかく勇気を出して退避行動を起こした子どもに、絶望を与えないでほしい。

 子どもを救いたい気持ちと、大人の古い価値観が変わって欲しい思いと、自分の辛かった記憶と、いろいろなものが浮かんで混ざってしまいます。

 もう夜が明けそうです。

 あなたの辛い夜もはやく明けて優しい朝が訪れますように。

創作のためにサポートを使わせていただきます。さらに磨きのかかった良い作品を創れるように活かしたいと思います。