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夏の風物詩

先日、CMで稲川淳二さんを見かけたとき、夫が「夏だねえ」と言った。わたしもそう思う。夏の風物詩と言えばいろいろ思い起こされるが、著名な人だと稲川淳二、TUBEあたりを思い浮かべる人は多いのではないだろうか。

わたしは怖い話の類はけっこう好きなほうだ。そのくせ、おばけ屋敷は怖いので絶対に入らない。おばけや幽霊が怖いのではなく、突然大きな音がしたり、人が脅かしてくるのが苦手なのだ。

わたしには霊感がない。かなりおおざっぱな性格だし、怖さよりも眠気が勝る。もし「幽霊のようなもの」を見たとしても「あ、見間違いだな」と自己完結するにちがいない。そんな人間に波長を合わせるのは幽霊にとってもあまりメリットはないのだろう。

そんな具合なので、心霊番組などで見るエピソードも話半分に聞いている。そもそも、科学では説明しきれない事柄はきっとたくさんあり、その説明しきれない部分を「幽霊」という抽象的なワードに置き換えているのだろう。だから「幽霊がいる」というのはそのものの存在のことではなくて、「幽霊を認識しているかどうか」という問題なのではないか、とぼんやり考える。

わたしは実家に仏壇がある程度でとくに信仰心を持たないけれど「幽霊」「おばけ」で説明される目に見えないものや力は、形を変えればある種の「神様」にもなりうるのではないか。

しかし、わたしの身近にも、説明のしようがない心霊写真のエピソードが2つあることを先日ふと思い出した。

1つは実物を見たことがない、亡きおじいちゃんの心霊写真。おじいちゃんの仏壇の前で遊んでいた初孫の男の子を撮ったら、白い人形が写っていたらしい。それを見た母は「お父さん喜んでるだな」ととてもうれしく思ったそうだ。不思議なことに年数が経つにつれ、白いもやのようなものは薄れているそうだから、わたしも1度見てみたいと思っている。

そして、2つ目は、わたしが意図せずに撮影した写真だ。

2011年、ちょうどいまと同じような季節に、一人旅で念願だった大久野島へ行くことができた。大久野島といえば、瀬戸内海に浮かぶうさぎの島として近年人気を集めていて、今は休暇村として整備されている。しかし、戦時中に毒ガスを作る工場が稼働していたという異色の経歴をもつ島でもある。

わたしは、中学生くらいから大久野島に遺構が残されていることを知っていて、いつか行きたいとずっと考えていたのがようやく実現したのだった。

初めて訪れる大久野島にわたしは静かな興奮を覚えていた。外はどんよりと薄暗く、いまにも雨が降り出しそうな曇天。前日、広島観光をした足で島に向かったから、おそらくお昼前に到着して夕方ごろまでは滞在していたかと思う。大久野島は0.7k㎡の小さな島なので、半日〜1日もあれば十分に見て回ることができた。

島は中心が小高い山になっていて、道はきちんと整備されている。海沿いにはビジターセンターや宿泊施設があり、広島あたりの小学生が利用することもあるらしい。

わたしは足早に毒ガス資料館へと向かい、一通りの予習をした後で芸予要塞の砲台跡や貯蔵庫跡の見学へと向かった。あとから思い返してみると、どうやら、件の写真を撮ったのはそのときだった気がする。

もちろん、霊感とは無縁のわたしはその写真を撮ってすぐに異変に気づくことはなかった。問題は、名古屋に帰ってからだ。

バイト先にいた自称・霊感が強い社員さんに大久野島に行った話をしたところ、妙に食いつかれて写真を見せることになった。コンデジの小さな画面をピッピっと手早く操作していた彼の手がある写真のところで急に止まった。

「え、俺この写真すげー怖いんだけど」「え、なんでですか」見れば、薄暗がりのコンクリートの倉庫のような場所と、蔦植物くらいしか写真には写っていない。

「ちょっとここよく見て」そう言って、社員さんは10cm四方くらいの小さな画面を指差す。ここ、と言われた場所は画面の中では小さすぎて、男の人の太い指で隠されてしまうほどだ。

「またまたー、そうやって脅かそうとしてますよね」年の割にチャラチャラしたその男性社員は日頃から冗談ばっかり言って学生バイトともフランクに話す人だったので、タチの悪い冗談だなあと思いながらその画面を覗く。

そこには、よく見ないとわからないほど小さかったけれど、確かに中年男性のような白黒の面影が写り込んでいた。

「え、いや、これコンクリートの壁のシミですよね……?」「いや、これどう見てもおじさんでしょ」社員さんはそう言って聞かないが、その写真を見ても怖さを感じようとしないわたしの脳内は「いやいやこんなのよくある見間違いでしょ」で終わらせようとしていた。

結局、その写真は現像しないほうがいいよね、ということで、わたしのおおざっぱさも相まって、うっかり消していなければ今もハードディスクのどこかに眠っているはずだ。それが本当におじさんだったのか、単なる見間違いなのかはわからないけれど、わからないほうがいいこともたくさんある。

あの写真を撮る前、蔦に覆われた発電所を見学したわたしは足早に島の頂上へと向かっていた。曇天はますます目の前に垂れ込めて、穏やかな瀬戸内海も暗く鈍色に染まってしまっている。

雨の心配をしながら頂上付近の砲台跡へと辿り着いたとき、辺りには全く人の気配がなかった。今まで一人旅であちこち行ってきたとはいえ、天気もあいまってさすがにこのシチュエーションは不気味だ。

遠く聞こえる海のうねりのような音に身を固くしながらも、せっかく来たので写真を撮って行こう、と思ったとき、ゴロゴロと雷の音が響いた。よりにもよって、島の山頂には大きな鉄塔も立っている。

雷の音が近づいてきたな、と思うのとほとんど同時に大粒の雨がぱた、ぱた、と空から落ちてきて、みるみるうちにざあっと降りはじめる。室内で見る雷は怖くないけれど、見知らぬ島で辺りには人っ子一人いない。あるのは100年近く前の使われていない砲台だけだ。

わたしは一目散に駆け出した。さっき息を荒くしながら上がってきた道を、一心不乱に駆け下りる。ばたばたばた、と雨に追われるようにして、ズボンの裾を跳ねた水で汚しながら、木々の間を走っていく。

目の前にうさぎがいた広場と宿舎が見えたとき、わたしは助かった、と思った。うさぎたちも突然の雨のために身を隠しているようだったけれど、現代の人の手が入ったものがそこにあるだけで、なんだか助かったような気分になった。

そんなことがあったからだろうか、なぜだか写り込んでしまったおじさんの話を聞いてもそれほど怖いとは思わなかった。それよりも、現実の方がよっぽど怖い。鬱蒼とした島の山頂の砲台跡で雷が近づいてきたり、なぜか道端に1足だけ転がってる靴だとか、夜中目覚めたらデジタル時計が4:44だったりとか、カラスが集団で飛んでいるだとか、そういう偶然性の方がよっぽど怖い。

1番怖いのは、無意識にしまいこんである怖さの琴線がむくりと顔を出して突然怖いと感じる、あの瞬間なのかもしれない。少し早い5月のゲリラ豪雨を窓の外に見ながら、ぼんやりそんなことを考える初夏だ。




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