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本をつくる #01 祖父の手紙、祖母のはなし。私が尾州に向かうまで

本をつくりたい。昔からそう漠然と思っていた。
でも、何の本をつくるのか、そしてどうやって作るのか、その知識も必然も持ち合わせていないまま、今に至る。

それが、本をつくろうと思うようになったきっかけは、津島に住む母方の祖母の話からだった。

ここ1年ほど、祖母は私や母、あるいは他の孫たちにしきりに祖父の話を聞かせたがるようになった。
祖母はまもなく90歳を迎えるが、大病をすることもなく元気に自宅で暮らしている。
けれど、日々老いを実感するからだろうか、あるいはきょうだいを亡くしたからだろうか、自分が話せるうちに孫たちが知らない祖父のことを伝えておきたいという気持ちが強いのだという。

私を含め、孫たちは誰も祖父を知らない。
祖父は37才で亡くなってしまったからだ。

時は高度成長期のさなか。
妻と10歳の息子と7歳の娘(私の母)を遺して、祖父はあっという間に亡くなってしまった。胃がんが見つかって、わずか3ヶ月のことだったという。
だから、子供の頃から私が知っている祖父の遺影はとても若く、いつまでも笑顔がまぶしい。

私が知っている祖父のこと。
それは、家族をとても大切にしていたこと。
私と母と祖父は皆同じ高校に通っていたということ。実家が下駄屋だったということ。そして、染色整理会社に勤めていたということ。

本当にこれくらいのことを断片的に聞いて知っているだけだ。

あるとき、偶然病名を知ってしまった祖父は、その日から一心に家族に手紙を書き始めた。手紙だけではなく、病室にテープレコーダーを取り寄せて肉声を吹き込んだテープもある。色紙に捺した手形や、辞世の句、そして、自分のお葬式で配るための挨拶まで遺されていた。

そうしたあれこれを見せながら、祖母は何度も同じ話を伝える。
時系列ではないから、前に聞いた話や何度か聞いたエピソードも出てくる。

でも、あるとき祖母は絞り出すような声で言ったのだ。
「私の人生、何だったのかねえ」

苦労しながらも息子と娘を育て上げた祖母には、今では4人の孫と4人のひ孫までいる。家族と暮らしていて、傍目に見れば穏やかな生活を送っているように見える。

「ひ孫までいて幸せだねえ、と言われるけど、お父さんとは10年しか一緒にいられなかった。私の人生は何だったんだろうと思うよ」

そう言われて、とっさに言葉が出てこなかった。

その痛みに、私は到底触れられないと思う。
人に囲まれたあかるさの中にある孤独。

大切な人を亡くす痛みを本当の意味で私はわからないけれども、祖母が私たちに祖父のことを伝えたいと思う気持ちに何かの形で応えたい。

それならば、私は私なりに祖母の知らない祖父のことを伝える術があるのではないか。
ライターという仕事を生かして、祖母に伝えられることが見つかるかもしれない。

だから、まずは祖父の生きた足跡を辿ることにした。
そして、それは本にまとめよう。ネットを使わない祖母にも読んでもらえるように。

かつて祖父は、好景気の時代に染色整理会社に勤めていたという。
津島や一宮、羽島などの尾州地域は毛織物の一大産地として知られ、機織りの機械の音になぞらえて「ガチャマン景気」といわれていたほどだ。

祖父はとても仕事熱心だったという。祖父が携わった仕事や産業の中にもその足跡が何か見つかるかもしれない。そこで、私はまずは尾州地域で開催されている「ひつじサミット」へ行ってみることにした。

つづく

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