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判断を手放せるように

この一週間、ずっと苦しかった。

起きる出来事。それに反応する自分の心。
それとは真逆の真理。

真理を求めながら、それとは真逆の自分の思考、感情、見方に、
赦し、願い、求め、
それでも自我にとどまろうとする自分の心に、
もがき、苦しみ、心の内に泣き叫んでいた。



一週間前、足を怪我した。
始まりはそこからだった。

怪我したことはそんなに気にしてなかったけど、
そのあと急に私に対する態度がきつくなった人がいる。

何が理由かまったくわからない。

それでもこのことは、
「肉体の目にその人がどのように映ろうと、真のその人を見る」
ということを練習するのにとてもいいと思った。
最初の一日目は。

一瞬垣間見えた世界はとても心地よく、
ずっとそのように見たいと思ったけれど、
見ようと思えば思うほど、見れない。
その人の言動に心が揺れ動く。気分が落ちる。

誰かに話したい。誰かに話してみたい。
そしてどう思うか聞いてみたい。
理由に心当たりはないか聞いてみたい。

そんな今までの見方、考え方の思いが湧く。

ああ、違う。
これは幻想を現実ととらえた見方だ。考え方だ。
本当の私は?
本当のあの人は?

助けてイエス。
助けてホーリー。
どう見たらいい?
イエスはどう見たの?
本当の私は?
本当のあの人は?


心が疲れてくるのに加え、
ここ数日の忙しさと怪我をした足を庇っていることで、
体がかなり疲れているのを感じた。
暑さも手伝って、すべて放り出したい思いに駆られる。

私はもうイエスとともに歩むと決めた。
絶対に放り出さない。放り出したくない。
私は神が創造したままの私で、この世界で役割を果たすんだ。



ある日Linpが言った。
「赦しをしていくとイエスを受け入れたくないと思ってる自分に気づく。Ruruは今赦しをしてるからそのうちわかると思うよ。
今やってることは間違ってないから」

私の心が抵抗した。
私がイエスを受け入れてない?
イエスに聞いてるのに?イエスに話してるのに?
私はクリスチャンだった時期がある。
その頃聖歌隊だった私は、
「主よ、愛します。心込めて愛します。」
と涙を流して歌っていたほどイエスを愛していた。
当時と今ではイエスに対する思いは少し違う。
当時は畏敬の思いに近かったけれど、
今は隣でともに歩いてくれている最も信頼のおける友、兄という感じ。
その私がイエスを受け入れてない?
なんでいつもそうやって私より一歩も二歩も先に進んでいるような言い方するの?
なんでいつも私がLinpよりできてないっていう言い方するの?

でもこのLinpに対する私の反応も違う、と頭でわかってる。
そのようなLinpを見るということは私の投影なんだもん。
結局Linpがどうのこうのじゃなく、
私の心なんだもん。

それは私に態度がきつくなったあの人についても同じ。
あの人に理由があるわけじゃない。
私の心の投影でしかない。


そう思えばどこにも吐き出すことができない。
私の心に赦しをするしかない。
イエスに頼むしかない。
ホーリーに頼むしかない。

イエスを受け入れてない?
そうなのかどうかわからない。
だけどLinpの口から私は聞いた。
なんであれ、私がそれを聞いたということは私に必要な言葉だったに違いない。
わからないけれど、イエスを受け入れたくないという思いがあるとすれば、それは赦しが必要だ。

イエスを受け入れたくないという心を取り去ってください。
神を、イエスを恐れる心を取り去ってください。


真理を学んだ私の頭は、
すべて私の心の投影なんだと思い出させる。
でも私はもう嫌だ!と叫んでいる。
忙しくて体がきついのはもう嫌だ!
今の生活環境はもう嫌だ!
重い荷物を持って暑い中、頭痛がしてきながら歩く。
車で涼しげに移動していく人たち。
真理を学ぶ前、私も必要なお金は充分あってこんな思いはしなかった。こんなみじめな思いは・・・。
そんな感情が湧く。


心が葛藤する。
頭痛がする。
疲れた。
真に見ることができない。
私は勝手に判断している。
正しい判断など私はできないのに。
私が判断したことに従っている。
それは間違っているのに。
判断はイエスに委ねたい。聖霊に委ねたい。
私はその判断を聞き、それに従いたい。
イエス、聖霊はすべてを知っていて、その判断が間違うことはけしてないのだから。

でも、できない・・・
判断をしないということも、
心の抵抗を手放すことも、
幻想である分離の世界で実相を見ることも、
私にはできない・・・

苦しみ、泣き叫びながら、
疲れはて眠りについた。

助けて・・イエス・・



翌朝、助けが届いた。
マニュアルの読んだところにその助けはあった。

自らを霊であると悟っていない者たちへのコミュニケーションを可能にするような、媒体が必要になる。すなわち、彼らにも見ることのできる肉体である。そして、真理が彼らの中に浮上させることになる恐れを介さずに、彼らが理解し耳を傾けることのできる声である。恐れずに歓迎される場所にのみ真理は入ってこられるということを、忘れてはならない。同様に、彼らの一体性はじかに認識されることは不可能なので、神の教師には肉体が必要である。

だが、彼らを神の教師とするのは、肉体の正しい目的についての彼らの認識である。彼らがこの仕事で進歩するにつれて徐々に確信を強めていくのは、肉体の機能とは、神の声が肉体を介して人の耳に語れるようにすることだけだということである。そしてその耳は聞く者の心へと、この世のものではないメッセージを運び、そのメッセージの源ゆえに、心は理解するだろう。

奇跡講座下巻 教師のためのマニュアル


ここを読んでいたら、頭にサッと応えがきた。
あの人の態度がきついのは、真理に対する抵抗なんだ。
私の心はまだ神の教師としては未熟だけれど、
それでも私の肉体を、声を、聖霊が用いてなにかがあの人に伝わっているのかもしれない。
あの人はそれに抵抗しているのかもしれない。

真理を恐れるあまりこの幻想世界を私たちは創ったんだ。
だから真理に抵抗するのは当たり前だ。
私は真理に抵抗しまくってきた。
赦しによって聖霊はその抵抗をゆっくり取り去り、
私が受け入れられるようにしてきた。

私の知識ではなく、私の言葉でもなく、
ただ私の肉体を使って、なんらかの形で聖霊が神の声を伝える。

あの人の抵抗は、私の抵抗。
あの人が気づく前に、私が赦しをしよう。

私たちの抵抗を取り去ってください。
私たちの恐れを取り去ってください。


一週間ぶりに気持ちが晴れた。
明日、あの人の態度を見て、また落ちるかもしれない。
それは私が判断するからだ。
私はただ、イエスを頼りにしよう。
判断を手放せるよう聖霊に赦しをしながら。

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