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奇跡のコース実践記録22

★パート2 真の知覚の獲得への取り組み

1. ゆるしとは何でしょうか

レッスン 225
「神」は私の「父」です。そして、「神の子」は「父」を愛しています。 

レッスン 226
私の家が私を待っています。私はそこに向かって急ぎます。

レッスン 227
これは私の神聖な解放の瞬間です。

レッスン 228
「神」は私に有罪判決を下されませんでした。私も同様に私自身に有罪判決を下しません。

レッスン 229
私を創造した「愛」が私の本質です。 

レッスン 230
今、私は「神」の安らぎを探求し、発見します。

2. 救いとは何でしょうか

レッスン 231
「父」よ、私は「あなた」を思い出すことだけを意図します。

レッスン 232
我が「父」よ、一日中ずっと私のマインドの中にいてください。

レッスン 233
今日、私は私の生命を「神」に捧げ、導いてもらいます。

レッスン 234
「父」よ、今日、私は再び「あなたの子」になります。

レッスン 235
「神」は「神」の慈悲心において、私が救われることを意図されます。

レッスン 236
私は私のマインドを統治します。私のマインドは私だけで統治しなければなりません。

レッスン 237
今、私は「神」が創造されたままの存在になります。

レッスン 238
私の決断にすべての救いが依拠しています。

レッスン 239
私の「父」の栄光は私自身の栄光です。

レッスン 240
怖れはいかなる形であれ正当化されるものではありません。


ネガティブな感情や気分が落ちるような出来事というのは、
私のなかにある「罪悪感」を見せてくれているものです。

「罪悪感」が無くなれば、怖れや不安は無くなっていきます。

怖れ、不安のない人生。
どんな人生でしょうか。
そんな人生は、どんなに幸せでしょうか。


「罪悪感」
それはどんなものでしょう。

コースによると、
神と分離してしまったと信じたから持ったものです。
神に似せて創られたのだから、神から離れても神と同じようなことができるんじゃないかと思い、離れてみようと決めたのだそうです。

思ったものを創造できるのが神です。
その神に似せて創られたのですから、離れてみるぞと思ったとき、神から離れたこの物質世界を生んだのです。

でもすぐに、やっちまった!と思います。神に怒られる!
これが「罪悪感」です。
すべての人間が持っている「罪悪感」です。

今の私が認識しているイメージでざっくり書いたので、ちょっと違うかもしれません。
だいたいこんな感じ、くらいで読んでもらえたらいいかなと思います。


怒られる~と思ってるので逃げます。
隠れます。
逃げ隠れしてるのでいつ見つかるかドキドキです。
不安が生まれます。
怖れが生まれます。

こうしてこの物質世界の人生には不安と怖れがつきまとうのです。



私が理解しているゆるしとは、
分離したと思い込んでしまったことをゆるすことです。
持ってしまった「罪悪感」を認め、取り除いてくださいと聖霊に頼むことです。

分離したと思い込んだので、自分と自分以外があると勘違いしました。
自分と自分以外があると勘違いしたので、自分以外から自分を守らなければならないと信じたのです。
そして神から離れてしまった(と思い込んだ)ので、無力で弱いのが自分だと信じたのです。
それらの勘違いから、すべての不安、怖れは生まれています。
この勘違いが真実だと思い込ませるよう仕向けているのが自我です。


すべての不安、怖れの大元である「罪悪感」を取り除くこと。
そして神の子であることを思い出すこと。
それが「救い」です。



ネガティブな感情になる言葉や出来事は、私のなかにある「罪悪感」を見せてくれるものです。

その「罪悪感」に気付き、聖霊に「罪悪感」を取り除いてもらうのです。


このことをLinpが話したとき、それを聞いていた私の中にネガティブな感情が湧きました。

ネガティブになる要素は無いよう見えるのに、なぜ私は落ちたのか。

この頃私が実践していたコースのレッスン内容は、まるで天国に入ったようだ感じていました。それで私はこの日の朝、「私がなすことを教えてください」と聖霊に言いました。

Linpからのこの話は、その日のお昼に聞いたのです。

私はまだまだ天国までは遠い。
まだまだ豊かにはなれないんだ。
もう数日で食べるものが無くなるかもしれない。
寝るところがまた無くなるかもしれない。

そういう思いが出ました。
不安、怖れです。
あとから、これは自我の囁きだと気づきました。

まだまだ豊かにはなれないんじゃない?
食べれなくなったらどうするの?
寝るところはどうするの?

物質的なものはすべて幻想なので、本当はそういうことは関係ないのですが、どうしよう、なんとかしないといけないんじゃないかと思って気分が落ちるのです。


これを聖霊の目で見ればどうなるでしょう。

今、食べ物が無いわけじゃありません。
今夜、寝るところが無いわけじゃありません。
今現在、何か足りないものがあるわけじゃありません。
未来のことを考えるから、どうなるだろうと不安になるのです。
今ではない、未来のこと、過去のことを思うのは自我のすることです。
真我は今しか見ません。
聖霊が見ているのは今です。
時間というものは本当は無いからです。

自我の誘惑に流されて、怖れて不安になってそれに対処しても、怖れや不安は無くなりません。
また別の形で怖れや不安がやってくるだけです。


すべては持ってしまった「罪悪感」が見せていること。
分離したことなど未だかつて一度もないのですから「罪悪感」は不要なのです。
「罪悪感」は私の中にこびりついています。
聖霊は私の中にいます。
私の中にあるものは私の中にある存在でなければ取り除くことはできません。
だから「罪悪感」を取り去ってくださいと聖霊に頼むのです。


「罪悪感」を取り去るゆるしのチャンスは、気分が落ちた時です。
ネガティブさを感じたら、ゆるしのチャンスです。
こびりついている「罪悪感」を使って、自我はありとあらゆる手を使って真実に気付かせまいとしてきます。

ネガティブさを感じたら、何度も何度もゆるしを実践していきます。
ゆるしを実践し続けても次々出てくるゆるしのチャンス、落ちる気分に嫌になることもあります。
何かしらの進捗が目に見えるわけではないので、嫌になってくるのですが、
でも続けていくとある時ふと気付きます。

ネガティブさに敏感に気づけるようになってきたことに。
自分に対して寛容になっていることに。
相手に対して寛容になっていることに。
聖霊を信頼できるようになってきていることに。
そして以前より、不安や怖れが少なくなってきていることに。


今どのくらい上手になっているか、
今どのくらいちゃんと理解できているのか、
そんなことは考えなくていいのです。

何もわからない、何も知らなかった時から、
聖霊はずっと私と共にいて、ずっと救いの道へ導いてくれていたのです。

私はゆるしを続けていくこと。
それだけです。
聖霊がいつも共にいて、しっかり導いてくれます。
不安や怖れは無くなって、愛の中で生きるようになっていくのです。


Ruru


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