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奇跡のコース実践記録34

最後のレッスン

レッスン 361〜365
この神聖な瞬間を私は「あなた」に捧げます。
「あなた」が責任者です。というのは、「あなた」の導きが私に安らぎを与えてくれることを確信して、私はあなたの後をついていくからです。

そして、もしも私が私を助けるための言葉を必要としていれば、「彼」は私にそれを与えてくれるでしょう。
もしも私が思いを必要としていれば、「彼」はそれも与えてくれるでしょう。
そして、もしも私が静けさと、穏やかで開かれたマインドを必要としていれば、それらの贈り物を私は「彼」から受け取るでしょう。
「彼」は私の要請によって責任を引き受けています。
そして、「彼」は私の声を聞き、応えてくれるでしょう。
なぜなら、「彼」は私の「父」なる「神」と「神」の神聖な「子」に代わって語るからです。


日々気づくことがあります。
新しい発見があります。

それは小さいことだったり、大きなことだったりします。
思いがけないタイミングでふっと気づくこともあれば、
感情が動くことで気づくこともあります。



委ねるということ

「聖霊に委ねます。」
「流れに身を任せます。」
エイブラハム的に言うと、
「下流に向かいます。」
なんて言って、委ねているつもりでした。

でもいつも自分で設定したゴールがあったことに気づきました。

心配事のない暮らしがしたい。
必要なものが整えられるようにしたい。
こういうことをして過ごしたい。
この真理を学んで実践していったら、それが叶うんでしょ?

という感じです。
まだそれが叶ってないと見るから、

まだまだできてないんだ
ちゃんとわかってないんだ

と思っていました。

これはまったく委ねていないってことに気づいたんです。
本当に委ねるというのは、
どこに連れていかれるのか、
何をすることになるのか、
どんな経験をすることになるのか、
それらもすっかり委ねることです。

こんな経験はいやだ
こんなことはしたくない
などもないのです。
どんなことが起きてもすっかり安心しているのです。


委ねている時、聖霊は最短で私の真の幸せへと導いてくれます。
真の幸せとは、
真実の自己を知ること。
そして真実の自己と一体となること。
つまり神と一体となること。
愛と安らぎの中に戻ることです。

委ねることは聖霊の邪魔をしないということですから、最速でそこへ行けるのです。
ただ自分の中にしっかりと持っている必要のない信念を手放したり、間違った見方を修正する必要があるので、
聖霊に委ねるということが時にはとても怖く感じるかもしれません。
自我は、真実に気づいてほしくないのでかなり抵抗します。

私も未だに完全に委ねることができてはいません。
でも委ねていなかったことに気づいたので、少しずつ修正されながら委ねることができるようになっていくんだと思います。



神に私を使ってもらうこと

インスピレーションを得て行動する。
直感を得てそれを伝える。
自我から行動を起こすのではなく、聖霊の声を受けて行動したい。
相手にそれを伝えたい。
そう思っていました。

それはどんな感じなのか。
ずっとよくわかりませんでした。
私には霊感もないし、何も見えないのです。
きっと真理を体得したら聞こえたり感じたりできるようになるのかも、
なんて思っていたのかも知れません。

とても気持ち良くて大好きな公園があります。
その公園を歩いているときにふと気づいたんです。

神や聖霊の言葉が頭に入ってきて、それを認識してから口に出すのだろうと思っていましたが、違う!
言葉が頭に入ってきたとか認識する前に、勝手に口が動いているんです。
話ながら自分でも不思議な気持ちになるんです。
自分で話ながら、あ、そうか、なんて思ったり。
そうなんだーって思ったり。
何言ってるんだろうって思うこともあったり。

私の身体を使ってもらうとはまさにそういう感じなんだと思いました。

頭に入ってきた言葉を認識できる時点で、きっとそれは自我の言葉なのだろうなと思います。
思考は自我の領域ですから。



思い出とそれに伴う感情のこと

先日、思い出のある場所を通り、昔のことをあれこれ思い出しました。
小さい頃の記憶や大人になってからの記憶、様々です。
その思い出のある場所に所縁のある方々に関することです。

その方々とのいい思い出は少なく、どちらかといえばネガティブな感情になるような思い出が多いのですが、
思い出しているうちに、その時々のネガティブな感情も思い出されてきました。

思い出している途中、
これは自我の見方をしている思い出だなと思いました。
そりゃそうです。
自我が見せるこの世界こそが真実だと信じていた頃の出来事です。

これらの思い出を聖霊の目で見たらどうなるのだろうと思いました。
やってみましたが、なんだかよくわかりません。
たぶん聖霊の目で見ることはまったく出来なかったのでしょう。

聖霊の目で見るとどのようにとらえることができるのか。
それがわからなかったので、今の私にはまだできないことなんだなと思いました。
いつもの癖です。
まだできてないと自分を責めてるのです。

これを後でLinpにシェアした時、Linpはこう言いました。
「その思い出に巻き込まれずに、自我の見方だなって気づいてるんだから、それでいいんじゃない?」

ほっとしました。

思い出した出来事に巻き込まれて、ドーンと落ちたり、怒ったり、言い返したくなったりと感情が引っ張られたまま、それが自我の見方であることに気づかないと、そこに気づくまで似たような出来事が起こります。
気づいて湧いてきた感情をありのままに見るからこそ、ゆるしの実践ができるのです。



気づくだけでほぼOK

いろいろ実践してきて思うのは、
気づくことが大事だってことです。

私は委ねることも、任せることも、
修正することもできません。
それらをやらなくちゃと思って頑張っていたのは、すべて自力でした。
聖霊の目で見ようとするのも自力です。
自力を手放すこともできません。
自力を手放そうとすることも自力です。

だた気づくだけでいいのです。
気づいたら聖霊にお願いできます。
委ねること、任せること、修正すること、自力を手放すこと。
全て聖霊にはできます。

聖霊はいつでも導きたいと思って一緒にいてくれています。
導いて欲しいと思っていても、私たちが自力で何かをしなくちゃと思うことで聖霊の邪魔をしてしまうのです。
聖霊にお願いすることは聖霊の邪魔になりません。
聖霊は張り切って癒し、ゆるし、修正し、不要なものは取り去ってくれるのです。
そして神と一体であるところへと導いてくれるのです。



ワークブックの実践を終えてからも、日々実践を続けています。
聖霊への信頼度は高くなる一方です。
安らぎの方向へ導いてくれているのがいつも感じられるからです。

自我の目にはまずいんじゃないの?と思えるような状況も、聖霊がどのように導いてくれるか楽しみなのです。

だって数十年前、一年前、一ヶ月前、一週間前、三日前の自分と比べると、確実に安らいで幸せを感じているんですから。

自我は様々な手を使って誘惑してきます。実に巧妙です。
相当な怖れを感じたことも多くありますし、絶望したくなるようなこともありました。
逆に順調に思える時にこそ自我の罠はそこかしこにありました。
真理に向かって歩いていると思っていたのに、自我の罠にハマっていることもありました。
でもそんな自我の働きも、すべて私の誤った信念や見方を修正するために役立っているのです。

すべては神と一体であるところに還るために起きています。
私たちはその中で誤りに気づき、聖霊に修正してもらうのです。
何一つ、ひとりで頑張ることはありません。
聖霊が共にいます。
聖霊に助けてもらえます。
時に悪態をついても泣いても怒ってもいいのです。
あなたは罰せられることはありません。


ベストなタイミングで出来事が起こり、
ベストなタイミングでいろいろな教えに出会い、
ベストなタイミングで少しずつ修正され、
そして今、こうして奇跡のコースに出会いました。
いつも完璧に導いてくれている聖霊に感謝です。


Ruru

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