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基礎って何?

教育現場では、基礎基本の定着が日々の課題である。
基礎ができないと、応用はできない。

孫泰蔵氏の著書『冒険の書』では、基礎神話と言われ、再考すべき点としてあげられている。

応用の前に修得するのが基礎だ。基礎を理解していなければ、応用はできない。学習する順序は決められている。いきなり応用に取り組むとどうなるのか。

わからないことにぶち当たる。わからないので調べる。辞書や先生、ネットや動画を頼る。そうすると少しわかる。この次に分岐点がある。

極めるのか、それとも少しでいいのか。
新しいアイテムを手に入れたとき、例えば電子レンジのような家電、説明書を始めから終わりまで全ページ読み込むのか、それとも必要なところだけ読むのか。基礎重視だと、説明書を全ページ読み終えるまで、決して電子レンジは使うな。ということになる。使わない機能については、知らなくていい。試しに使って失敗して、それから読もうというのもありだ。電子レンジを極めるつもりはない人もいる。全機能を頭に入れて、使いこなしたい人もいる。そう思うと基礎が全員に必要ではなさそうだ。最近よく聞く、個別最適化した学びが実現されるなら、極めたいか、それとも少しでいいのか、選べたり合わせたりできる。

技術や専門家を利用すれば基礎はなくても何とかなるか

通訳や翻訳を利用すれば、外国語の学習はいらない。フランス革命について、基礎から学ぶにはフランス語の修得から始めて、フランス語で原典を読んで理解すればいい。しかし、日本で高校生にフランス革命について教えている先生は、フランス語修得者とは限らない。訳された図書で学習して、授業をしている。論点や解釈、構造の把握や背景なども、自分で見出したのではなく、大学の教員や専門書が日本語で説いてくれたものが、授業の下地にある。社会は分業によって進化してきた。だから専門家に頼ればいい。素人向けの解説書や新書は読みやすい。専門家が読むと、緻密さがないと感じることもあるが、初学者や素人には十分だ。大まかに把握したい。概要をつかみたい。極めたいわけではない。だから大学教員ではなく、高校教師で十分だ。

すべてを粗く網羅するのが基礎か、それとも断片だけでいいのか

極めるわけではないが、粗く網羅しておいた方がいいと言われてきた。粗くというのは、詳細はわからないが概要はわかるという状態だ。網目は大きいが一応全範囲カバーしている。粗い網羅が基礎だ。網羅をやめて断片だけで済ませたらだめだろうか。断片だけど詳しく学ぶのはどうだろう。中等教育は学問の縮図として網羅を心がけてきた。しかし、最近では選択制や多様性を大事にする動きもある。そうすると、網羅性を手放すことになる。自分に何が必要かは、簡単にはわからない。電子レンジの説明書を全ページ読むと、こんな機能やレシピがあったんだ!と気づいて、活用の幅が思いがけず広がるかもしれない。網羅のメリットだ。世界の主な山脈や地名を用もないのに頭に叩き込む必要はないと感じる一方で、世界の歴史を少しずつ網羅的に学べば、地域と地域の関連や共通点に気づくことができる。多様な事例学習、ケーススタディも基礎と言える。知識はある程度の量があることで、応用可能性が高くなる。断片的より総合的な方が役立つ。

ネット検索があるから断片的でも困らない。困ったら助け合えばいい。専門家も利用すればいい。医学の知識はなくても医療は受けられる。法律家や翻訳アプリ、調理師やエンジニアを利用すればいい。基礎を身につけていないことを前提にして相談に乗ってもらえばいい。基礎は不要だ。

いきなり応用に手を出して、しくじったら基礎を手に入れる。何が基礎なのかは一様ではない。基礎という道だけが応用につながっていると思ってしまうが、基礎以外にもあるかもしれない。基礎も1つではないかもしれない。効率は悪いけど、応用から始めて、応用につながっているいくつかの道から、自分で選んで遡ればそれが基礎だ。人それぞれ何を基礎にするか自由でよい。

定型の基礎を共有する社会をやめられるか。

誰かがこれが基礎だと決めている。教育の基盤として定型の基礎を社会的に共有している。子どもの育成において、学習の形を整えて、誰もが大差なく身につけることを求めている。みんな同じ基礎を身につけることが社会人になる条件だ。社会の安定に寄与してきたしくみだ。大差なく同じ基礎ではなく、自分で選んで何かを基礎として身につければいいというように変更できるか。網羅ではなく、選択したある部分でいい。みんなが同じ基礎を持っている社会ではなく、それぞれが個性的な基礎を持っている社会になる。自分一人では網羅性はないので、必要に応じて他者に頼る。知識分業と言える。歩調は揃わないし、格差を拡大するが、イノベーティブだと思う。互いに尊重でき寛容になるなら、格差問題は解消できる。

誰かがデザインした基礎とその次にある応用に従うのではなく、学びを自分でデザインする。自由度は高まるが、非効率な面もある。これまでは誰でも確実に応用にたどり着けたが、自由になれば無駄も混じる。かといっていつまでも網羅性を保持しようとすると、デジタル化や情報化で把握すべき対象は巨大化しており、網羅しようとする取り組み自体が非効率だ。基礎に時間を取られて、応用にたどり着けなくなる。

つまらない基礎より面白い応用を重視して、網羅しない断片的で深掘りした基礎を使って応用に挑み、他者とコミュニケーションをとってチームで足りない基礎を補い合う社会が到来するのだろうか。

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