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サイエンスを尊ばない日本

日本の教育は現在、理科教育や科学的な探究学習に力を入れている。理系人口を増やしたい。人口減少時代において、国力を維持するためだ。科学技術立国として、多くのノーベル賞受賞者がいる日本だが、サイエンスを日本人は尊ばない。

論理的思考や論理的整合性を疎かにしているわけではない。苦手でもない。どこか現実と切り離して理解している。現実社会は計算通りには進まない。このことがやたら強調される。科学的知見は未来予測につながるが完璧ではない。だからといって役立たないと捨てる必要はない。科学捜査や科学的分析は有用だ。

不合理な決着や無駄の継承が未だにある。

日本社会には無駄がある。いつまでも継承されて消えずに残る。理不尽な決定や納得できない決着は子どものときから経験して、飼い慣らされてしまう。論理矛盾がある決定もときには受け入れる。みんなが変だと言っても実行される。過ぎれば忘れるが、検討なしに継承される。客観的な考察や科学的な検証は、学校で教わるが現実社会では、目をつぶってしまう。

権力に服従、政治決着が優先

権力者はその座に着いたら地位の維持を図る。地位の維持には無駄も有用だ。矛盾があってもついてくる忠誠心を権力者は歓迎する。論理や科学より人間関係が大事だ。上下関係を大切にする儒教の精神とも言える。法的な手続きを経なければ有効にならない判断は、最終段階は担当者の裁量だ。プライドやメンツがサイエンスに勝る。訂正には謝罪が伴う。大衆は権力者に無謬性を求めるので、謝罪する者は地位を奪われる。だから何でも政治決着だ。第三者委員会は、第三者じゃない。

効率の追求は文化を失う

資本主義経済は合理的な人間による効率化を推進する。利益追求のためには効率を優先するが、文化は守りたい。効率だけを考えれば、令和という元号はいらない。西暦だけを用いるのが効率的だ。でも元号という文化を守りたい。文化を守ろうとする力が権力者によって、無駄を守ることに利用されている。その結果として、サイエンスは価値判断の際の優先順位を下げられてしまう。だから日本はブラックな社会を温存する。

権力は客観的、科学的批判を超越する。日本的な考え方とは自然科学からの自由と換言できる。科学を尊ばない日本は野蛮かもしれないが、最近は多様性を受け入れる寛容の精神で、肯定されている。権力の被害者をなくすためには、サイエンスや科学的思考が必要だ。守ろうとしている文化が何かわからずに、守ることに加担させられるので、厄介だ。

どうやら二重構造があるようだ。

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