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JAZZが『アニメ』を喰らっても、青くは輝けない。


はじめに


上映されることは知っていたものの、劇場へ足を運べず、ずっと気になっていた『BLUE GIANT』が配信開始されたので、遅ればせながら観ました。

端的に評価すると、映画としては、75点。しかし、アニメーションとしては、65点。総合して、70点ぐらいの出来だと思う。

映画.comにかなり的を得たレビューがあったので、ここで参照しておく。

すごい音楽シーンがいくつもあった。その音楽シーンの中でさえ、2D、3Dのマッチングがうまくいってない気はするが、それでも怒涛の演奏と映像表現に押し切られる。なにかクリエイティブなものを描く作品で、劇中に出てくる表現がショボくて心が離れることがあるが、『ハケンアニメ』の劇中アニメのクオリティがみごとだったように、『BLUE GIANT』の音楽(ドラマシーンのBGMは除く)は作品の中の演奏として力がある。



ただ、音楽シーンに注ぎ込まれた熱量とスキルに比べて、ほかのシーンの演出、作画、セリフ、ストーリー面との落差が大きすぎるのではないか。全カットに同じエネルギーを注ぐことはできず、どこに力を入れるか配分するのがスタッフの腕の見せ所だと思うのだが、ちょっとクオリティの上下幅がでかくてノイズになってしまっているように思う。あとこれは本作に限ったことではないが、マンガやアニメの多くは、年配のキャラをどう描くかに向き合ってこなかった弊害があるのではないか。



一点突破の強度に乗っかっていくか、どうしても気になる箇所で躓いてしまうかで大きく評価も変わる作品だと思うが、音楽シーンはやはり無視できない魅力がある。個人的には、観てよかったとはいえ、もっとイケたはずだともったいなく思う。

『BLUE GIANT』村山 章氏のレビューより


私は、かなりのアニメ党であるにも関わらず、『ハケンアニメ』をまだ見ていないので、劇中アニメの出来がどれほどのものなのか定かではないが、「音楽に関わるシーンとそれ以外のシーンのギャップがノイズになってしまっている。」という意見には同意である。

だが、この文字数のレビューでは、説得力に欠ける部分があると思うので、自分なりにもっと深堀して、評価していこうと思う。


『漫画』と『アニメーション』の違い


本作について語る前に、触れておくべきことがある。

それは、見出しの通り『漫画』と『アニメーション』の違いである。

一般的なことを長々と書く必要はないと思うので、双方を構成する最小単位である「要素」について考えてみる。

『漫画』を構成する要素は、大雑把に分けると「絵」「音」しかない。

「いやいや、もっとあるだろ!」と思うかもしれないが所謂、「コマ割り」と呼ばれるある描写をどれだけの大きさでどのように工夫して一枚のページの中に配置するのかについては、「絵」の中に含めることができると思う。

また、「音」も登場するキャラクターが発するものから、モノローグ、
効果音、環境音。漫画を開けば、私達の耳に音が聞こえてくるわけではないが、音に関わるすべての描写は、「音」という要素に纏めてしまってもいいと思う。

わざわざ、定義を説明する必要がないように思えるが、実際に文章にして書きながら考えてみると面白いことに気付く。

本当に『漫画』には、「絵」「音」しかないのか?

違うのだと思う。私も漫画の研究者ではないので、もっと細かな分け方ができるだろうが、一般の読者が気にしているのは、この二つの分かりやすい
要素だけではないだろうか。

というのも実際問題、ウェブ漫画のコメント欄には、「絵が下手くそ」だといって内容には全く触れない読者がかなりの数いるし、「漫画の名言10選」のようなくだらないウェブサイトや動画にかなりのアクセスがあるわけですから。

よって私は「絵と音しか気にならないあいつらの目は節穴だよ」と言いたいのではなく、「絵の説得力」や「台詞の強さ」には作家の個性が見えるし、色んな人に読んでもらいたいなら、分かりやすい要素で目を惹くことは重要で、漫画の編集者もヒット漫画を作る上では大事な柱だと認識しているはずだからその見方が間違っているとは言えないのだ。

しかし、それだけの要素では許されないのが『アニメーション』=『映像』である。

『機動戦士ガンダム』の監督である富野由悠季さんは、ある講演会の中で「アニメーションは、総合芸術である。」と仰った。

『総合芸術』・・・複数の分野の芸術の混交によって創造される一つの統一的な芸術

難しい言い回しだが、要は、『漫画』には漫画固有の「コマ割り」や「吹き出し」のような表現方法があるが、『アニメーション』=『映像』は、(幾つかの例外があり、そのまま流用できるものではないのだが)全く別の芸術と交わることで創作されるものという意味ではないだろうか。

現に今回、記事で取り扱う『BLUE GIANT』は、ジャズ・ピアニストである
上原ひろみさんが音楽を担当されているし、実際に演奏されている人の動きをなぞって作画をする「ロトスコープ」や動きを記録し、データ化することで映像制作に利用する「モーションキャプチャ」は『アニメーション』のみならず、色々な分野で応用され、利用されている。

畑が違えば問題意識や体験することもそれぞれ違うもので、導入することで起きる新発見やはたまま新たな問題もあるだろうし、映像表現は無限とは言わないまでも、アニメーション固有の表現と呼べるものの方が実際、少ないのではないだろうか。


さて、ようやく『漫画』と『アニメーション』の違いについて分かってきたと思うが、「これで漫画よりもアニメーションの方が作るのが難しいと分かっただろう。よって、『BLUE GIANT』は、原作の方が傑作で、映画は駄作だ。」と言えれば楽なのだが、そうはいかない。

そうはいかない理由を書くために、本編の話に入っていこう。


マンガから音が聞こえる



本作の原作である石塚真一氏のコミック「BLUE GIANT」を称賛するファンは、口を揃えて「マンガから音が聞こえる」と本作を形容する。

「幻聴でも聞こえているのか?マンガから音は聞こえないだろ!」と思う人が少ないことを願うが、この表現は、論理的に適切なものだと考える。

「読者の方が脳内で音を鳴らしてくれるんです。ありがたい話です。みんなそれぞれにいろいろな音が鳴っていると思います。登場人物たちに感情があり、感情、気持ちがあった上でステージに立って音を奏でます。読者の方は、その感情に合わせた音を鳴らしてくれているんだと思います。例えば、サックスプレーヤーになりたい少年が草っ原で鳴らす音は、きっとこんな音だろう……と想像する。とある高校生がサックスを吹いているだけだったら、想像できないと思うんです。感情と共に演奏しているんです。感情、気持ちがないまま画(え)を描いても音は鳴らないのかもしれません」

なぜマンガから音が聞こえるのか? アニメで説得力のある音楽に 原作者・石塚真一に聞く


このインタビュー記事の原作者の発言通りである。と私も考える。

先ほど、語ったことの反復になるが、『漫画』には「絵」と「音」しか要素がない。しかし、人間の五感で考えると、この二つの要素は視覚のみで捉えるものであり、聴覚は一切使わない。故に、漫画の表現は全て記号。


「なぜ、このシーンでこの音が発生するのか?」

「このシーンは、実際どんな音が聞こえるのか?」

記号であるからこそ、考える余地が自動的に発生する。

作者から読者への「こういう風に聞こえてほしい、見てほしい」という縛りがないのだ。言わば、解釈の自由を作者から担保されている作品。

もっと簡単に言うと、「正解」がないのだ。

それは、「ある程度のヒント=記号を与えるだけで、正解探しをさせない」という本来、芸術を楽しんでもらうために創作するために、クリエイターが必要な思考を芸術の一つである”音楽”それも歌手や歌詞を極力必要としない”ジャズ”をテーマにいまや芸術の一つとされるマンガの中で音を使わずに作中に流れてくる音を想起させるという本作の志向で表現できていることに総合芸術的なマンガ作品であることが伺え、原作である「BLUE GIANT」から溢れる魅力の一つであると言えよう。


では、映画「BLUE GIANT」はどうなのか?

映像作品である以上、表現しなければいけない要素(BGM、キャラクターの日常演技、CGと2D作画の融合、台詞での感情表現、観客のリアクションなど)が数えればきりが無いほど、豊富にあり、それらを上手く、組み合わせて効果的に演出を施すことで、原作ファンの想起した音のイメージを拡張し、自分達の頭の中よりも視覚のみならず聴覚を刺激して、原作よりも高次元的に表現できていると納得させる必要があった。

だが、ふたを開けてみると、音楽シーンに力を入れることには、成功したものの、他の要素をどう描くか努力はしているものの蔑ろにしてしまったことは事実。

作中では、一人、上京し、世界一のジャズプレイヤーを目指す主人公 大 が、実家がピアノ教室で幼少期からピアノのみの人生を歩んできたエリートであるピアニスト雪祈や大の演奏に感動し、共に舞台に立つことを志すひよっこドラマーの玉田とトリオ「JASS」を組んで試行錯誤しながら、共に高め合い、「SO BLUE」のステージにたどり着き、そして、成長した大は仲間たちと別れ、単身ドイツに渡るという出会いと別れの物語をメンバーだけでなく、練習スタジオを提供し、3人の成長を見守ってくれるジャズバーのアキコや雪祈に厳しい言葉をかけながらも発奮を促し、交通事故により、雪祈が出演できなくなった「JASS」の出演を押し通してくれた平。また、ビラを受け取ったことがきっかけで初ライブから「JASS」を応援してくれる望月など、大に関わる色んな人々に焦点を当てることで、音楽というものは、一人の力で生まれるものではないことを一貫して描いている。

この映画を見ながら、私は「この作品は、漫画家やアニメーション作家のような「クリエイター」たちの物語では?」と思った。

だからこそ、素晴らしい音楽や演奏シーンに負けないような表現力が、音楽に関わるシーン以外にも要求されたはずなのだが予算的な問題なのか、経験値不足故なのか、才能なのか。かなり凡庸なものになっている。

キャラクターたちの発する台詞から湧いて出てくるような熱い感情表現は少なく、音楽シーン以外の日常演技もよくあるもので、CGと2D作画の融合もぎこちないものになっていて、ライブシーンでの観客のリアクションも人間が騒いでいる説得力がなく、人形にしか見えない。

これでは、作中で描かれる主人公達の共同作業による研鑽というモチーフに共同作業でこのアニメーション映画を製作するはずのスタッフ陣と制作体制が嘘をついていることになる。

「描かれるモチーフと映画制作志向の不一致」

それがこの映画の最大の欠点であるように思う。

しかし、演出的に良い部分もあった。

特に、本編開始57分頃のジャズフェス開演前、表面上では天沼の言うことを握手と共に受け入れる建前の大とその奥にある熱い思いを台詞に込める本音の大をイマジナリィラインを超えながら描写しているシーンは、非常に巧みだった。

また、1時間49分ごろの雪祈のピアノソロでグラスに反射して写った雪祈が反転してから、幼少期の回想シーンに入り、夜逃げして疎遠になってしまったピアノ教室の少女が観客として演奏を聴いているという一連の演出も映像だからこそできるにくいもので感動を覚えた。

そう、良い演出も随所に見られる作品なのだ。だからこそ、もっと遠い所まで飛べたはずなのに、原作とアニメーションの相性が悪いのか、それとも単純な力不足で120%を表現しきれなかったのか。

もったいない。非常にもったいない。

それが、正直な私の感想だ。


総括


タイトルにある通り、上原ひろみさんの楽曲とモーションキャプチャを利用した演奏シーンは、物凄くカッコイイ。が、その部分に力をいれすぎた結果、それ以外のアニメーションが、映像が担うべき、表現すべき要素に力を回すことができなかった。

たとえJAZZに関わるパートが素晴らしく、その他の『アニメ』で表現される要素を喰らっても相対的には、原作で描かれているライブシーンのように熱い赤色からもっと熱い青色に輝くような作品にはならない。

JAZZが『アニメ』を喰らっても、青くは輝けない

それが本作への評価である。

































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