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おじいちゃんの生まれた町に、行ってみた。


「松阪の人はのんびりしてる」
おじいちゃんの話をする時、決まって母はそう言うのだった。

私のおじいちゃんは、三重県松阪市で生まれ、29歳でおばあちゃんと結婚して大阪に移り住むまで、松阪で暮らした。
おじいちゃんは、ユーモラスで、子煩悩で、芸術的センスのあるモダンな人だった。
78歳で人生の幕を下ろすまで、私の「おじいちゃん」でいてくれた。
そんなおじいちゃんが生まれた町を、ずっと知りたかった。

2020年、だんだんと汗ばむ陽気の日が増えた初夏、
私は三重県に引っ越してきた。
生まれ育った町を出たのは、人生で二度目。
一度目は大学進学のため、京都郊外の大学寮に入った時。
今回は転職先として、ご縁のあった三重県へ。
「おじいちゃんに呼ばれたんかもなぁ」
そう母は笑っていた。
私もちょっと、そうかもな、と思っていた。

新しい暮らしや仕事に慣れだした頃、ふと「松阪にいきたいな」と思った。
どうせなら泊まりで。誰かが「その土地をより深く知りたいなら、旅は泊まりにすべきだよ」と言っていたからだ。
私は、いそいそと一泊二日の松阪旅を企んだ。

*

おじいちゃんは何度か転職をしていたらしい。
運送業や社長の運転手、最後の仕事はタクシー運転手。
私が生まれて少ししてから、定年退職をしたそうだ。
おじいちゃんの家と私の実家は車で15分。幼稚園になる頃の記憶だが、週末はたいてい「じいちゃんとばあちゃんの家に泊まりに行く」と言い、
自らおじいちゃんに電話し車で迎えに来てもらった。
もちろん、運転手はおじいちゃん。もちろん、安全運転で。

私は車の免許こそ持っているが、筋金入りのペーパードライバーなので
どうやらおじいちゃんの運転センスは遺伝しなかったらしい。
(追記:2023年現在は三重でゴリゴリに運転力を鍛えられ、今ではドライブ大好きに!人生、何があるかほんと分からない)

特急電車に揺られ2時間。松阪駅に着いた。
本日は快晴なり。駅前から商店街を抜けて、少し歩いてみることにした。

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少し歩くと、駅前の観光案内所のおじさん(人なつこい)が教えてくれた旧街道が見えてきた。
町のいたるところで見かける鈴のモチーフが可愛らしい。

「おじいちゃんもここを、歩いたのかな」

旅の一日目はオーソドックスな「松阪」を知りたいと思い、観光案内所でもらった地図を片手に歩く。

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三重県に来るまでずっと着物の着付けを習っていたので、松阪木綿には興味があった。手織りもめんセンターでは、少しずつ織り上げられていく丁寧な仕事を見て、いつか松阪木綿の着物を作りたいと強く思った。

11月とは思えない陽気の良さに足取りが軽くなる。
松坂城跡では、ごつごつとしつつも美しく積み上げられた石垣を横目に歩く。天守閣跡まで登り町の景色を見下ろすと、足がすくんだ。
そうだ、忘れていた、私は高所恐怖症だった・・・

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さて、日も暮れてきたしそろそろお宿へ。老舗の旅館が温かく迎えてくれた。
旅はやっぱり「食」だ。だって、どんな旅の記憶にも食べ物の思い出って色濃く残る。もしおじいちゃんが生きていて、一緒に松阪を旅していたなら
「今日は贅沢しようよ」
と二人でニヤっとしていた気がして、私はひとりで贅沢をした。生まれて初めての、お店で食べるすきやき。
きっとこれからずっと、忘れられない味。
(お肉が甘かった・・・!)

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朝になって目を覚ますと、昨夜のすきやきの匂いがまだ部屋に残っていた。

今日は、どうしても行きたい場所が二つあった。
一つは、おじいちゃんのお父さんとお母さんが眠るお墓のあるお寺。
もう一つは、おじいちゃんが生まれた場所。
この日、ちょっぴり不思議な体験をすることを、私はまだ知らない。

お寺は宿から歩いて行ける距離にあった。境内に入り本堂を抜けると、お墓がたくさん並んでいた。この中に、私のご先祖様が眠っている。でも、さすがにどのお墓がご先祖様のものなのかまでは知らなかった。
ここにきて、無念・・・。とはならず、ひとまず一つ一つ墓石の名前を探してみることにした。
が、当然、敷地内は広く、見つけるのは困難だとすぐに分かった。

そんな時、なぜかふと「こっちかもしれない」と思い
通路を右に曲がり、ふと目に入った墓石に、見覚えのある名前があった。「おじいちゃんの名字だ・・・!」しかしいざ墓石と向き当ってみても本当にそれがご先祖様のお墓なのかは分からない。おじいちゃんの名字はありふれた名字だったため、他の人のものかもしれない。
ぼそっと「失礼します」と言い、お墓の裏側をのぞかせてもらった。
そこにはおじいちゃんのお兄さんの名前が刻んであった。

「!!」とにかく驚いた。
次の瞬間、ああ、導いてくれたんだね、と妙に納得した。お線香をあげて、ご先祖様にごあいさつ。「いつもありがとうございます」「また来ますね」

***

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おじいちゃんが亡くなったのは、私が高校二年生の時だった。
無口ではあったが、いつもどこかとぼけてて面白くて
私や姉をよく笑わせてくれた。
ある時は南アルプスの天然水のCMのシブい声まねで。
またある時は蝉を取りに行ったのに蜂を捕まえて。
またまたある時は禁煙してから大の甘党になり、夜中に寝ながら黒飴をなめて枕に真っ黒い染みを作りおばあちゃんを激怒させて。
スーパーの試食コーナーのぶどうをパクパク何粒も食らっていた光景は、今も目に焼き付いている(爆笑)

そんな彼の人生を、一緒に過ごしたほんの少しの時間のことしか知らないなんて、なんだか寂しい。
おじいちゃんの戸籍にあった昔の地名を頼りに、松阪市役所を訪れ(すごい行動力)現在の地名とだいたいの場所を教えてもらった。
市役所を後にし、すぐさまバスに乗り込んだ。

松阪駅から40分ほどバスに揺られ、おそらくおじいちゃんが生まれて初めて「エアー」を吸ったであろう町に降り立った。
見渡す限り、山と川と民家があった。歩いている人は、いなかった。
おじいちゃんの生家はもう既にないことは母から聞いていたので、彼の生まれた時の暮らしや風景を知ることはできない。けれでも、せめて彼の故郷に少しでも触れてみたかった。触れることで、彼の目になり、思いを馳せてみたかった。

次のバスを逃すと、だいぶん先まで待たないといけないので、近くの川を眺めてバス停に戻ることにした。

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水が澄んでいて穏やかで気持ちがいい。もしかしたら、おじいちゃんの夏の遊び場だったかもしれない。あくまで、想像だけど。
結果として、おじいちゃんの「足跡」は見つけられなかった。
それでも、この場所に来てみてよかったな、と心から思えた自分がいた。
その事実が、うれしかった。

****

再びバスに揺られ40分。松阪駅に戻ってきた。
今回の旅の目的を無事果たせたことで、頭が少しぼーっとしていた。

「松阪の人はのんびりしてる」


母の言葉を思い返す。今回の旅で出会った松阪の人たちの印象は
「のんびり」というよりは「しなやか」だった。
本居宣長記念館では本居さんの「仕事を大事にしなさい」という言葉が胸に響いたし、旅館の女将さんたちの温かなおもてなしには、当時同じく接客業をしていた身としては「私も一生懸命仕事をしよう」と背筋が伸びる思いがした。

おじいちゃんと松阪を一緒に歩くことは、残念ながらもう出来ない。
けれどまた、今度は誰かと訪れたい町だった。

「おじいちゃん、松阪って、ええとこやね。私、めっちゃ好きやわ」

「そやろ」ふふっと笑う彼の姿が目に浮かんだ。


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