読書ノート:ハンナ・アーレント

読みました。「ハンナ・アーレント」 矢野久美子 中公新書


度々、本で見かけるハンナ・アーレントという人がより立体的になった。ハイデガー、エリック・ホッファー、アドルノ、ホルクハイマーという人の名前も出てきて、あーこの人たちをどの本で見たんだっけ・・。エリックホッファーの波止場日記くらいしか思い出せない。
偶然、100分de名著がハイデガーなので、こんな偶然性が重なると一気に関心が湧き、理解が進むような気がするし、難しそうな「人間の条件」も読んでみようかなと思って借りてしまう。

抜き書きしたところを読んでいて、ウクライナ侵攻のニュースを見ていて感じることや、善きこともヘイトも爆発的に広げていくSNSの力の中にいて、善きことだろうとヘイトだろうと、そこには文化の醸成や対話が生まれるような時間的経過はなく、フィルターバブルの中にいるということを思い出した。
図書館の展示で、「ウクライナ問題」の展示を今日も見かけたが、
どストライクなウクライナについて扱うのはもちろんだけど、今置かれている社会を客観視するようなこうした本も展示することを図書館の人には発想してもらいたいと思った。
多視点から考えるきっかけをくれる場であるということが、図書館が民主主義の砦であるということだと思うんだよね。
以下抜き書き
ユダヤ人であったハンナ・アーレントは、ナチス・ドイツ政権下から逃れてアメリカ移住し、アメリカ社会を見て感じたこととして、
〈大衆ヒステリーは主観的で「私的」なものであるとアーレントは言う。〉〈アーレントによれば、「私的」であるとは奪われているということを意味する。奪われているのは、世界の多様な見え方、すなわち世界のリアリティである。他方で彼女は、近代のとば口の土地収用や農民の賃金労働者化から始まる富の蓄積過程を、世界疎外のプロセスと見ていた。〉
P178
〈差別的なカテゴリーを押し付けてくる政治のなかではそのカテゴリーを手に抵抗するしか現実的な手段はないとアーレントは考えた。しかし、それは「個人的なアイデンティティ」とは異なる。そのよな状況では、「個人的なアイデンティティ」は「無名」なものとして差別的カテゴリーに還元される。つまり、そうした場合には、「ユダヤ人」として現実的に抵抗すると同時に、そうした押し付けられる「帰属」の内実に自らの存在性格を還元させない視点が必要になってくるのである。彼女によれば、階級的帰属や民族的帰属は社会的差別や非抑圧者の排除を生み出すが、反転させれば、そうした帰属への還元あるいは平板かは、抑圧する側も「無名」、すなわち「誰でもない者」から成り立っているということを示していた。
〈また、アーレントにとって「人間的であること」は、たとえそれが摩擦や敵対を生み出すものであっても、複数の人々が「あいだ」の領域である世界に生きることにほかならなかった。
ユダヤ人であることにおいてもそれは要請される。複数の視点が存在する世界に生きることは、「人間」として抽象的に同じであろうとすることでもなければ、特殊性を強調することでもなかった。〉
〈複数の視点が存在する領域の外部にある真理は、善いものであろうと、悪いものであろうと、非人間的なものだ、と彼女は言い切る。なぜならそれは突如として人間を一枚岩の単一の意見にまとめ、単数の人間、一つの種族だけが地上に住むかのような自体を生じさせる恐れがあるからである。世界喪失への器具はこうしたところにも存在していた。〉

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