読書ノート 脱・筋トレ思考

「脱・筋トレ思考」平尾剛 ミシマ社
子どもの頃、運動が苦手だった理由がわかった・・豊橋まちなか図書館の「筋トレ」の本が並ぶ中に、手に取る人の思考を、脱構築するように置かれていた本。スポーツ界の人で、知性派、哲学系の人は、為末大だと思っていたけど、元ラグビー選手の著者も、なかなかいい・・!身体知について、内田樹とも交流があるようだ。良すぎて、感想がめっちゃ長くなりました。

〈筋トレ主義とは〉
著者は、本書の中で、わかりやすい目的を掲げ、それに向けてシンプルな方法で解決する考え方を「筋トレ主義」と表現していた。運動の場合の「わかりやすい目的」は、パフォーマンスの向上、勝利、上位の成績を収めること。
 そのためには、運動の上達が必要であるが、上達の過程は、「わからなさに耐える」ことで、「コツをつかむまで、自分の感覚世界でジタバタ」すること。その過程で、感覚が研ぎ澄まされ、その感覚の豊かさを極めた人がトップアスリート。できなさの中で、ジタバタする時間が、アスリートに必要な「身体感受性」を醸成するにもかかわらず、そのプロセスには重きは置かれていない。わからいやすい解決策として、「筋トレ」は存在している。スポーツ界、部活動の中で、「筋トレ思考」が蔓延っており、脱構築しようというのが本書で伝えたいこと。

〈なぜ、人は筋トレにはまるのか〉
元ラグビー選手だった著者は、「筋トレ」して、ムキムキの筋肉をつけることが、もっと強い選手になれると思っていたが、かえって、俊敏さが下がり、身体が重くなってしまった経験を語っていた。
  筋トレとパフォーマンスは比例しない。そもそも、ハイパフォーマンスをささえるものは、筋肉だけでなく、「思考の軌跡が折り重なる中で見える」もの。経験知とメンタル面の充実がパフォーマンスを支えている。それにもかかわらず、部活動や競技の中で、とにかく筋トレ!と推奨されているのはなぜか。
   筋トレが導入されていく前提には、把握、努力は見えにくい・・そのため、コーチは選手を評価し、優劣をつけずらいということがある。そして、選手自身もうまくなるため、人より抜きん出るため、選手に選ばれるため、試合に出るために、「とにかく、辛い練習に励めばよい」「気合い」と「根性」を可視化してくれるのが筋トレ。

〈発生論的運動学、身体知〉
  そこで、著者が提案したい視点は、発生論的運動学。ちょうど興味があった「身体知」!!発生論的運動学は、フッサールの現象学をもとに、クルト・マイネルが創始した。生理学・心理学的アプローチだけに頼る運動指導は、結局のところ運動主体の自学自習に丸投げしているにすぎない」(P134)と批判するのが、発生論的運動学のスタンス。「動感を発生させるための感覚指導ができて、初めて運動指導と呼べる。」そして、「身体知」という概念を基底に据えている。
 身体知を構成する要素、始原身体知(生まれつきの運動能力)、携帯身体知(特定の動きを見つけるための能力)、洗練化身体知(動きを高めるための能力)

指導者は感覚世界を豊かにする方法を提示しながら、言葉にならない、言葉では表現し難い感覚を、さまざまに表現する努力と、選手と対話を重ねていく人。
私が、「水泳が上達している」「前よりも進むようになった」という感覚、どうしてそうなったかは、なんとも表現しがたいし、人に伝えてわかるものではないなと思っていた。コーチは感覚世界に問いを投げかけてくれる人であると実感してる。

〈これからのスポーツ3.0〉
筋トレ至上主義は、個人の感覚より、勝利を優先する勝利至上主義や序列にもつながっている。私が子どもの頃学校の体育はことごとく苦手、何をしても人並み以下で、人前で晒し者になる時間。スポーツ得意な子が輝く時間であり、自分が力発揮するとこじゃないと、長年思っていた。
それにもかかわらず、10年前に始めたスキーは、人並みに上達した。
「スポーツで上達する」ということが初めての経験だった。
その時、習ったのは、「フィーリングスキー」で感覚を大事にする指導方針のスクール・・ここにも身体知とのつながりが・・
 そして、最近の水泳も40代になってから初めて、「水をつかむ」ってこういうことかとか、体幹で泳ぐってこういうことか・・とわかった。
私が苦手だったスポーツと、今好きなスポーツの違いは何か。今好きなスポーツは、自分の身体と対話する、文化としてのスポーツであるということ。
 平尾さんに興味が出たところで、ミシマ社のHPを見ていたら、なんと昨日、「スポーツ3.0」という本が出たとある・・!


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