見出し画像

『シン・仮面ライダー』とプログレ〈庵野監督と金属恵比須〉【前編】(プログレッシヴ・エッセイ 第11回)

2023年3月18日公開の『シン・仮面ライダー』。あれから1年。

金属恵比須のバンド運営に多大な影響を与えた映画だったのでその点を書いていきたい。なお、プログレ・バンドの視点からの意見であって、映画評ではないことを留意いただければと思う。また、私自身が仮面ライダー世代ではなく、マニアックに語ることはできないので、あくまで「ライダー初心者」の視点であることをご容赦いただければと思う。
『シン・仮面ライダー』と金属恵比須。共通するのは1970年代前半のものを題材として新しいものをつくること。ここに的を絞った内容となる。


2000年、監督の庵野秀明さんに私の作った映画を見ていただいたことがある。
その1年半前に新聞取材でご一緒させていただいたのが縁だった。

当時の新聞(毎日中学生新聞「庵野監督聞いてよ!」)

この頃、金属恵比須のバンド活動のかたわら、映画づくりにも没頭していた。監督を務めていた。


地元、杉並区のイベントで若者のつくる映画を庵野監督が見て感想をいただくというものがあり、そこでお見せしたのだった。

映画イベントでの記念撮影


タイトルは「鬼妻島」。
金田一耕助シリーズ『獄門島』と『八つ墓村』を足して200ぐらいで割っても割り切れない映画だった。金田一シリーズ本家に似せるため、瀬戸内海の島で撮影した。
余談だが、そこは香川県の通称「鬼ヶ島」と呼ばれる女木島で、金属恵比須の「鬼ヶ島」はここを元にした曲である。
さて、庵野監督は金田一シリーズのオマージュ作品をどう見たか。


「好きなことをやっていていいですね」

との感想。

私はこの言葉を「才能がない」と受け止めたのだった。
決してそういわれたわけではない。
が当時、バンドで演奏していても審査員からそのようなことをいわれたことがなく狼狽してしまったのだ。

以来、映画づくりから足を洗った。

金属恵比須に専念することに決めた。
そして今に至る。

庵野監督の言葉が、結果的にではあるが、金属恵比須を33年続けさせているのである。

次回は、『シン・仮面ライダー』がプログレ・バンドの金属恵比須にとってどのような影響を受けたかを書いていきたい。

(以下次号)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?