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やっちゃば一代記 実録(26)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記
 進駐軍
昭和二十三年以降、物品取引を縛ってきた規制が次々と解除されていく。
その年の九月、大木は持倉を出て独立。翌年、蔬菜仲買人制度の復活が認められ、セリ取引が再開された。
 若い社員二人だけのこじんまりした店だが、前途は洋々としていた。
マッカーサー司令官が西洋野菜の調達業務を指令してきたからだ。
築地市場では持丸、梅村屋とともに、大木の店が米軍基地への納入を任されることになり、開業当初から忙しい日々が続いた。半面、野菜納入に対する米軍のチェックは恐ろしく厳しかった。米軍はしきりにクリーンベジタブルを強調した文字通り【洗浄野菜】の意味だが、市場業者にはどうにも奇異に聞こえる。洗浄野菜がどんなものなのか?予め船便で着いた米国産のレタスやセロリを見せられた。何のことはない、外葉をすっかり取り払い、そのまま食べられる状態にしてあるだけのこと。洗浄野菜という特別の品種があるわけではなかったのだ。だが、この洗浄野菜の調達が存外、容易ではなかった。洗浄野菜を出荷できる畑は米軍の厳しい土壌検査にパスする必要があったのだ。合格した畑にはお墨付きの看板が立った。この立て札のある畑の野菜は他より高い値段で売れた。
 戦前の野菜栽培はリサイクル型の有機農法である。畑のあちこちに肥溜めがあり、人糞を醗酵させて肥料にしていた。その結果、野菜には寄生虫の卵が付着、日本人の多くは虫下しの世話になっていた。敗戦後進駐してきた米軍は「異なる人種に寄生虫、特に回虫が寄生すると致命的になる」として、
米軍向けの野菜については、畑に巣くう虫の徹底駆除を指示した。
 この要請に大木は唸った。実家の祖父の姿が記憶の底辺から浮かんできた
祖父はわざわざ堆肥小屋を作り、稲わらで四角の囲いを作ってから、その中に雑草を大人の背丈ほど積み上げ、上から人糞をかけて長期間寝かせ丹念に肥料を作っていた。その肥やしで実ったトマト、キュウリ、ナス、そして長十郎梨、幅広に張り切らんばかり肥えた百匁柿のうまさは大木の胃の腑にしっかり染み込んでいた。畑を飛び回って肥溜めに足を落としたこともある。
肥溜めは日本の農村風景の原点である。それがことごとく否定されようとしているのだ。
 米軍から納入を指定された大木たちは千葉、神奈川、埼玉など近県産地の野菜畑の検査に立ち会った。大木はスエヒロからステーキ肉を分けてもらい
米軍関係者に随行、ステーキを振る舞い、昼は畑を巡りながら日本の栽培事情について懸命に説明したが、果たして米軍兵士の反応は芳しくなかった。
 終戦後間もなくの頃で、千葉県では保田、勝山など在来産地の畑は荒廃していて、米軍の眼鏡にかなう畑は少なかった。一方、長野県は耕地面積が広く、周辺に肥溜めも見られず、悪臭のない畑が多かったので、米軍納入に指定される畑が多かった。後年、長野県が西洋野菜の有力産地となる下地は、この米軍納入に指定されることに由来している。
「ミスターオオキ、ジス・イズ・ラストチャンス!」
その日、米軍座間基地に呼び出された大木は、年配の女性将校から大目玉を喰らった。納めたレタスからミミズが這い出したというのだ。大木が納めた野菜ではなかったものの、責任はその期間の当番会社にあるとして、次に虫が見つかった場合は指定解除すると通告してきたのである。
 納入の前日、雨が降るり、たまたまミミズがレタスの中に隠れ込んだらしい。たかがミミズである。米軍の反応は過剰としか思えなかったが、鬼より怖いマッカーサー司令部に敗戦国の一国民が楯突くことなどできるはずがなかった。
 米軍進駐によって、日本の社会経済構造は、がらりと変わった。同様に農業も一八〇度の大転換を迫られた。終戦直後、戦争孤児や浮浪者は頭のてっぺんから足先までDDTを噴きかけられたように、畑にも農薬と化学肥料が撒き散らされることになる。
有機栽培から化学肥料栽培へ・・・日本の農業は新時代に入ったのである。

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