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なにをもたらすか構文

春は山菜の季節ですね。私は、薄味のこごみのおひたし、ごく甘いぜんまい煮が好きです。よく冷えた辛口のお酒とともに食したい。


さて、がらっと話は変わりますが、例えば自分にとって不都合な状況に陥ったとき。日常、どのような反応を示すことが多いでしょうか。
①飲んだり、食べたりして、忘れる、ごまかす、先送りにする
②愚痴を周囲にこぼし一時的に気分が軽くなる
③さも災いが我が身に降りかかったかのように被害者意識に囚われる
等々。
私は断然①です。ジャンクフードを無性に欲します。また③の被害者意識もあります。不幸なシーンを思い浮かべ心地よい自己憐憫にまみれ一時の現実逃避をしがちです。

しかし、これらはその場しのぎの対処にはなりますが根本的な解決をはかっていないため結局は時を変え場所を変え同様の問題が何度も繰り返されることになります。

■「なにをもたらすか構文」とは

私自身、そんなことを幾度となく繰り返しているうちに、いつしか経験則からとある構文を身に付けました。それは「〇〇は私に何をもたらすのか構文」です。

自分の思い通りに行かないこと、思いがけず面倒に巻き込まれること、自らの浅はかさが招いたトラブル、社会の理不尽や不合理でやりきれず地団駄を踏むこと…。かように世の中は面倒で出来ているものです。そんなとき私は「〇〇は私に一体なにをもたらすのだろうか。」と思い浮かべてみます。飛んだとばっちりやもらい事故も当然に有ります。だとしても、とにかく「何をもたらすのか」一旦はそう考えてみるのです。

悶々としながらも考えていると、いつしか膠着していた事象に新しい視点が吹き込まれ解決の糸口を見つけ出せたり、物事の概念、価値観の次元を一段上り新たな自分を見出すことが出来るようになります。結果、不都合な状況が幾ばくか改善することが不思議と有るのです。

そんな訳で私はこの「もたらす」という言葉をまあまあ気に入っています。そこで、この「もたらす」についてもう少し深堀りしてみようと思います。

■「もたらす」を調べる

はじめに言葉の成り立ちを調べます。まず、漢字で書くと「齎す」(もたらす)と書きます。辞書で調べてみたら思いのほか難しい字でした。音読みでは「シ、セイ、サイ」と読みます。

そして、漢字単体の意味は、「たから、財貨、贈り物」で古語の「もつ(持つ)」と「らす(造)」の動詞の組み合わせであり「何かを生み出し持ち込む」という意味が有ります。なお、一般的な語句としては、「持っていく、持ってくる」「ある物事が何事かを持ち込む、特定の状態を引き起こす」という意味で使われています。「自然の恵みは四季によってもたらされている。」 とか「生活の変化は疫病をもたらした。」など、良いこと悪いこと両方の意味合いで用いられています。

これらから、私は「もたらす」に次のようなイメージ、本質的な意味合いを掴みました。

■「もたらす」は時間が未来から現在へ進むことを示している

最近の科学理論において、時間の流れは過去から未来ではなく、未来から過去へと流れている、という説が書籍や動画でよく紹介されています。ただ、実際のところ、未来から過去に向かって時間が流れているということは現実世界においてはなかなか受け入れ難い概念です。しかし、「もたらす」という言葉に宿る本質が「未来から未知のものが訪れる」ことであると知ると、「もたらす」という語によって、時間が未来から現在に向かって流れてくることをなんとなく伺い知れるような気がしてきます。

また、「何かを生み出し持ち込む」という意味は、とある事象から異なる生成物が生まれ出でるとも言い換えられます。これは、「いまここの事柄」に対して新たに「未知の事柄」が生み出されることを指すものであり、またそれは未来から差し出されるものなのです。「〇〇は私に何をもたらすのか」という問いをたてることで私たちは目の前に未来を立ち上げることが出来ます。そして未来から自分自身を眺めることが出来るようになります。つまりそれは、私には未来が在るのだという微かな希望を生み出せることに他ならないのです。

■「もたらす」は未来を立ち上げ未来を描く

目の前に未来が立ち上がれば、次にやることはその未来を描く作業です。もたらすものに対し、耳を澄まし、目を凝らし、心を傾けることで、自分自身にもたらされる未来を、脳内でくっきりと解像度高く描ききることが出来るようになります。更にそれをどう活かし、役立てれば良いのかも自然と導き出せるようにもなります。

ごくごく身近な例をあげてみます。「もたらす」からこのような考えを導き出すことが可能になります。

ある晩、台風並みの強風が夜明けまで吹き荒れていた。ガレージの車の横には自転車をとめていた。夜中のうちに自転車は強風で倒れたようで、車のボディには小さな傷やへこみがふたつみっつ出来ていた。翌朝、それを見た私は「こんな傷が付いては車の下取り査定のときにひびいてしまうだろう。」と少々落胆した。しかし、被害者のポジションを取るのではなく、このアクシデントが私に何をもたらしたのかという視点で捉え直すと次のようなことが新たに見えてくる。強風により自転車で車に傷が付くことは予測出来たにもかかわらず事前に自転車を移動させなかった怠惰な私。普段から車を大切に扱わず軽く見ていたことが端無くも露呈した私。このように、車のアクシデントが自分の怠惰や慢心をつまびらかにさせ、そのような自分の振る舞い、心の持ち様には十分気を付けるよう戒めを私にもたらしてくれた。

些細な事柄ですが、このように考え出すこともまた可能なのです。

■「もたらされたもの」とは自分への贈り物である

古語においては、「齎」セイ・サイとは「贈り物」という意味があるとされています。それを引用すれば、なにをもたらすのか必死に考えた末に得られたものとは自分への贈り物だということになります。そして、贈り物とは受け手がそれを自分宛の「贈り物」だと認識したときに初めて成立するような構造で出来ています。贈り主が良かれと思って贈ったものであっても受け手が「贈り物」だと思わなければ「真の贈り物」にはならないのです。また、その逆に、送り主に全く本意がなくとも受け手が「これは私に宛てられた贈り物だ」と捉えた時点で、道端の石ころも空に舞うひとひらの花びらもそれらは「真の贈り物」になり得るのです。

突き詰めると「なにをもたらすか構文」で最も大事なことは、どのようなことも「これは自分宛の贈り物だ」と捉えてしまえるムシの良さであったりするのかもしれません。

そういえば、直観界の重鎮(と私は勝手に称している)である田坂広志さんの書籍「すべては導かれている」の「導かれているという概念」は「なにをもたらすのかという概念」とかなり近しいのではないか?と個人的、体感的にそう感じました。なお、こちらは本だけではなくyoutubeでも、田坂広志が語る「すべては導かれている~逆境を越え、人生を拓く五つの覚悟~」というタイトルでアップされています。とても示唆に富んだ内容ですので興味のある方はご覧になっていただければと思います。

「〇〇は私に一体なにをもたらすのか」という構文、問いの立て方を日常の中に取り入れることで、きっと、私たちは未来と希望を生み出し、「齎」(サイ)という自分宛の贈り物をいつでも受け取ることが出来るようになることでしょう。

相変わらず拙い文章ではありますが、とにかく世界は様々な種類の贈り物であふれている、それをここに記したかった次第です。

最後までお目通しをいただきましてどうも有難うございました。


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