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新政府、日本虚無党、ろくでなしが人の陰口、◉|★|〇、サザンカが咲かない丘にて、

五月三日

世の中では、詩人という看板をあげなければ、詩のくろうととして通用しない。数学者などの場合も同じことだ。けれども、万能の人は看板なんかは必要としないし、詩人の仕事にも、刺繍屋の仕事にも大したちがいはみとめない。

パスカル『パンセ』(田辺保・訳 角川書店)

午前十一時五七分。濃緑茶、卵かけ納豆ごはん。この日記、気が付けばもう五〇〇を超えている。野球で通算五〇〇試合登板なんていうと大したものだよ。これを書き始めたのは二〇二二年の十二月中旬くらいで、当初は読み終えた本についての「高度に批評的」な文章を書くつもりでいたが、けっきょくそうはならなかった。さいきんでは意見を自惚れ気味に開陳したりその日の不満をただ垂れ流したりするだけになっている。愚痴は体にいい。悪口は楽しい。このことを知っていながら知らないふりをしている人は多い。昨日は午後二時半から、長土塀の文圃閣へ行ってきた。わりと人がいた。いつもの独り言ジジイはいなかった。いつもいる奴がいないと気になる。こういう古書店で若い男をみかけることはまずない。そういえばこのまえ誰かと話していて、「部屋は古書だらけで時々シミになった心地がする」なんてことを言ったら、「シミって何?」と聞かれた。こういうときの私は相手の無知にイラついてしまう。シミという虫は紙魚とも書く。紙を泳ぐ魚、ということか。奇しくも英語ではSilver Fishという呼び名もある。買った本は、岸田秀『古希の雑考』、川喜田二郎『日本文化探検』、中野三敏『江戸名物評判記案内』、荒俣宏『万博とストリップ』、西山松之助『家元ものがたり』、山本七平『存亡の条件』、なだいなだ『カペー氏はレジスタンスをしたのだ』、金子兜太『ある庶民考』、花田清輝『鳥獣戯画』、アルベルト・マングェル『読書の歴史』の十二冊。締めて一三二〇円。会計の際、女の気怠そうな対応にイラついてしまった。本を数えながら「これは文庫ですかねえ、文庫ですよねえ」とかようやく聞こえるような声しか出さない。今後ぼそぼそ声でしゃべるのは止そうと思った。さいきん新聞ではSNS投資詐欺関連の記事が多い。「儲け話」に騙される人間のことなんかどうでもいい、などと思ってはいけない。バカ(知能弱者)というのはどんな時代にも必ず一定数いて、そういうバカを「保護」するのも政府の大切な仕事なんだ。FBなどの投資広告で肖像や名前を勝手に使われている著名人たちが怒っている。そのなかには堀江貴文もいる。「そんな人むかしいたね」としか思えない人物だけど。ちょっとコーヒータイム。

井上寿一『理想だらけの戦時下日本』(筑摩書房)を読む。
日中戦争の勃発にともなって開始された国民精神総動員運動(精動運動)について書かれたもの。著者によれば当時と今(二〇一三年ごろ)の国民心理は似ているらしい。日本人というのはがいして、「非強制的」な響きのある「~運動」や「~習慣」といったものが好きだ。当時、国民の「健康づくり」のためにいろいろのことが奨励された。そのなかにはラジオ体操もあって、これは現在にも続いている。日本では五・七・五のスローガンをよく見かける。道路沿いには「交通安全」を呼びかける標語があるし、学校には「いじめ防止」の標語がある。そんな文言をいちいち真面目に受け取る人などほとんどいない。実効性なんかよりも掛け声が大事だからだ。そういえば小室直樹は平和を唱えていれば平和が実現すると信じがちな日本人の「念力主義」と「言霊信仰」を批判していた。本書は全部で七章まである。四章までの目次は以下の通り。

第一章 「体を鍛えよ」といわれても
1 質実剛健、己の肉体を磨け
2 日本国民は健康が大事

第二章 形から入る愛国
1 あらゆる場所に日の丸を
2 思いを込めて君が代を歌え
3 いつなんどきでも宮城遥拝

第三章 戦前昭和のメディア戦略
1 庶民の味方ラジオ
2 洋画に負けるな精動映画
3 大人もはまる紙芝居
4 面白くないメディアは飽きられる

第四章 気分だけは戦争中
1 傷ついた軍人を大切に
2 女の仕事は銃後の守り
3 学生にボランティアを義務づけてみる
4 ご近所仲良く隣組

こうして見ると目次というのは一種の「超要約」だ。編集者の力量がこれほど問われるところはない。ちゃんとした目次があれば「本の要約サービス」なんか誰も使わないだろう。書店で知らない著者の文庫本を手にして「解説」から読むのは読書素人。読書玄人はまず「目次」から読む。目次でその本の質がだいたい判断できる。文庫本に埋もれながら暮らしている俺を信じろ。もうそろそろ食パン焼いて新聞読んで図書館に行くわ。めめんとモリブデン。世界に一つだけの罠。

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