見出し画像

梅と下痢、「たかがお金のこと」で悩める現代的心性、「出生暴力」を論じることの途方もない難しさ、かりだかじゃぽん、

三月九日

凡そ人間ほど不愉快な動物はありはしまい。しかし、いくら愉快だろうが、不愉快だろうが人間に生まれてきたのだから、コイツは尻の持って行きどころがない。その上、人間に生まれたら人間同志がなんのかのといいながら毎日ウソの百万だらを並べて藻掻き苦しんで死ぬまで生きていなければならないのだ。まったくもって降参もんだ。
これから何百万年、何千万年――同じようなことを繰り返して行くのだろうが、まったくこれ以上阿呆らしいことはあるまい。いい加減止めたらよさそうなものだと思うのだが――

『辻潤著作集<二巻>癡人の独語』「ひぐりでいや・びぐりでいや」(オリオン出版社)

午前十一時四四分。コーヒー、紅茶、カルパス。十時半ごろにまた爺さんの訪問で起こされる。俺にとって午前中はすべて「早朝」だということをいい加減知ってほしい。一月分の電気代を滞納していてまた送電停止を食らいそうだとか。ごにょごにょ嫁の悪口でもこぼす調子で生活苦を嘆き、ストレートに八千円貸してほしいと頼んでこないのにイライラさせられた。他人に支援を求められない人間によくありがちな「曖昧性」。言語化しなくてもその苦境をぜんぶ察してくれると思っている。やはり彼は生活保護を受けたくないようだ。それを「恥ずべきこと」として認識している。「ナショナルミニマムの保障は国家の義務」と何回講義してもたぶん伝わらないだろう。「自分が土下座をする人間は容易に他人を土下座させる人間である」というのは佐高信の名言だが、その文型に則って言うなら、「他人の世話にはなりたくない」と言いたがる人間は「他人の世話になっている他人」に厳しく当たる人間である。「自分に厳しい人間」を俺が嫌うのもそのため。このグロ注意社会においては「弱者」ほど「弱者」に厳しい。「弱者」は連帯するどころか無自覚のうちに反目しあっている。「弱者カースト」の上位者はいつも見下すための下位者を必要としている。これはエセ社会学者の俺が「弱者の分断統治」と呼んでいるものの結果なのか。ところでさいきんの俺は爺さんに対してやや「傲慢」に振る舞っている気がする。何にカネを使ったのかとかタバコをやめる気はあるのかとか預金残高はいくらなのかなんてことまで平気で聞いたりする。金を貸す人間が抱きがちな「権力感覚」に毒されているのでないか。俺は俺が最も嫌う人間に近づきつつある。そもそも人は金があろうがなかろうが「己の欲望」に忠実であるべきなのだ。たかが「金」のことで悩むバカバカしさを「世の中の人たち」がもうすこし理解してくれたなら。経済がひとつの壮大な茶番なのだということを。もし俺が電気代の支払いにも事欠くようになれば迷わず福祉事務所に行くだろうけど。一人で行きにくければ誰かに付いて来てもらう。冷たくあしらわれたら自殺をほのめかす。それでもだめなら東アジア反日武装戦線みたいになるしかないね。

千葉紀和/上東麻子『ルポ「命の選択」 誰が弱者を切り捨てるのか』(文藝春秋)を読む。
「出生前診断」や「13トリソミー」のことなどがとてもよく解説されている。歴史的な殺傷事件が起こった津久井やまゆり園がなぜあんな人里離れた場所にあるのか、といった重大な問題提起もある。現代における「優生思想」を取り巻く大小様々の事柄がじつによく取材されている。「障害者の存在」が軽んじられている事実はやはりあるだろう。脳性マヒ者の団体である「青い芝の会」はその「行動綱領」のなかで、「われらは健全者文明を否定する」と主張した。「健全者文明」は基本的に「生産性」という尺度で人間を測ろうとする。「役に立たない人間」を「ゴクツブシ」として露骨にあるいはやんわりと「排除(周縁化)」する力をはじめから有している。ここに「悪意」はない。とくに「政府」にとっては「国力増強」や「税収増」に寄与し得ない人間は「いないほうがいい」。「政府」にとっては「不良な子孫の出生を防止する」のはどこまでも理に適ったことなのだ。こうした「体制」にビルトインされている「暴力性」に対してはどこまでも敏感である「べき」だろう。「私たち」はしらずしらずのうちに「体制の論理」でものを考え、「体制の論理」でものを語るようになる。財務省目線で「福祉」を批判するような「経済弱者」はその典型。これはかなり複雑な話なのでまたいずれ詳しくやろう。ここには「自己責任」という政策言語(イデオロギー)も深く関わっていると思われるので。
ところで私は本書を読みながらずっとある苦しみ(というか「もどかしさ」)を感じていた。私にはもともと「子供を出生(させること)」を「許容しがたい暴力」と捉える倫理的観点がある(これにピンとくる人は実に少ない)。言いかたを変えると、「感性ある(苦痛を感じうる)個体」をその「同意」なしに「出生」させることは「倫理的」に正当化可能なのか、という疑問がある。この疑問に対してはいろんな反論が可能だ。「そもそも倫理とは何なのか」といった本質論的反論、「そもそもなぜ倫理的である必要があるのか」といった懐疑的反論、「そうした問いは<生物の本性>に反するものなのではないか」といった理念的反論、「世界とは<私>のことである、それゆえ<私>の行動を制限できる者などは存在しない」といった唯我論的反論。この問題について書くとなるとひじょうに長くなる。とても精密な議論が必要になるからだ。現在うんうん言いながら論考を書いている。

きょうは図書館に行く。あとATMに行って現金を下ろさないといけない。地球がいますぐ粉々になって困る人がいるのか? 俺の思想が巨大隕石なら! 地獄渺茫。亡者の群れ。ぺてん師マグー。今年の春は下痢らしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?