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キックボクサーの尻にピーナッツバターを塗りたくりたい夜は、辛辣な愛の在処を知れ、

八月十四日

十一時半起床。シリアル、紅茶。きのうも午後から図書館で相も変わらずシオランを読んでいたが、中日広島戦の経過が気になり過ぎて実質二時間くらいしか読めなかった。いくつもの点で「歴史的」な試合だった。中日の柳が九回までノーヒットノーランで零封したにもかかわらず味方の無援護で勝ちが付かず、そのあとに投げた守護神マルティネスが堂林にソロを被弾し(今季初自責点)、その裏で石川と宇佐見の連続ソロでサヨナラ勝ち。しかも岡林が球団新記録となる二六試合連続安打を放っている。なんだよこれ。あるドラゴンズファンいわく「最低で最高の試合」。それにしても柳は大変だ。防御率二点台後半で三勝八敗はさすがにびびる。貧血恐竜打線のおそろしさを感じる。阪神は破竹の十連勝。それでも優勝への道は遠い。正捕手の梅野が左手骨折で離脱した。今季はほぼ絶望的。残り三九試合あるが、かなりの大型連敗も見込んでおいたほうがいい。リーグ戦最終試合で優勝チームが決定することだってありうる。ただヤクルトと中日の優勝だけはありえないだろう。

星新一『きまぐれ学問所』(角川書店)を読む。
少し古いが「ショートショートの神様」の薀蓄がいかんなく発揮されている好著。星新一の祖父は解剖学者・人類学者である小金井良精で、『祖父・小金井良精の記』という大部の評伝も書いている。星のあの博物学的な好奇心はこの祖父なくして語れないのでは。やはり「環境」は大事なんだ。知的な人間は知的な人間に囲まれながら育つ。社会学でいうところの「文化資本」という概念を思い出さないわけにはいかない。
星は、巷の文章読本を次々俎上にのせながら、「けっきょく文は名前だ」と身も蓋もないことを言ってのける。言うも野暮だが、出版社からしてみれば、もうすでに名の売れている人の書いた凡作のほうが、無名の人のユニークな良作よりも、ずっと売り出しやすい。世の売れ筋の新刊書を見るがいい。ほとんど「名前」で売っているようなものだろう。村上春樹の新作も名前を伏せればあれだけ売れるだろうか。むかし松本人志の書いたものが大売れしたがあれも彼のネームバリューがあってこそだ。書くことを職業にしたがっている有象無象にまず必要なのは、この冷厳な認識だろう。文学的韜晦に逃げずとにかく読者に分かりやすく書け、といった星の文章指南に僕は懐疑的だが(稲垣足穂や埴谷雄高のような「抽象的難解味」が好きだから)、だからといって、「分かりやすさ」を軽視していいとはぜんぜん思っていない。「わざわざ読む義理も無い他人」に自分の書いたものをさいごまで読んでもらうためには、「分かりやすさ(リーダビリティ)」と「面白さ」は欠かせない要素だろう。社交上の会話だってそうだ。退屈きわまる話を一方的に延々と続けることは一種の「犯罪(時間泥棒)」であり、シオランの『カイエ』にはそうしたものへの呪いの言葉が散見される。

団鬼六『アナコンダ』(幻冬舎)を読む。
「異常な人々」をめぐるエッセイ集。著者は「官能小説」の大家として知られているが、将棋界から犬まで、扱う題材はあんがいに幅広い。
『美少年』(新潮社)の表題作は二度も三度読んだ(これは小野塚カホリによって漫画化もされている)。美少年が三人の男に凌辱されるこれ見よがしの描写にはいささか食傷したが、それでもこの作品は、美は破壊されるためにある、という私の信条にとても適ったものだった。美少年は神聖ゆえに現存し続けてはならない。老いは醜い。あらゆる人間は例外なく死に損ないであり、その「まだ生きている」という醜悪さは日に日に増大する一方。美少年に対しての私の<崇拝的破壊衝動>は日々反復されるなかで、なぜだか「菩薩信仰」へと変質した。<菩薩>と同衾するたび、僕は彼を激しく殴る。殴ることでしか私はおのれの救済を確信できない。
本書、ウンチを食う人々を描いた「フン族の襲撃」は思ったより平凡だった。好きな人のウンチや尿を口に入れたがる「性癖」なんて全然珍しくない。見世物として人間の女との性行為をさせられていた雄犬を描いた「獣姦エレジー」はなかなかに不快。「好色二刀流」はホモフォビアの臭いが強く残念だった。つまり、異性愛を「正常」な性的指向だとして疑わない凡庸なヘテロセクシズムを感じた。まあ世代的に仕方ないことなのかも知れないけど。
休館日だけど曇天気味。歩けるだけ歩いて、ミシェル・ウエルベックでも読みながらゆっくり過ごすか。

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