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錆びたナイフ、折れたナイフ、俺の頭はいつも学級崩壊が起きている、屑屑、

十月二九日

晩年の足穂は、ご飯を食べるのが億劫になり、おむすびを持って便所にしゃがみ、大便するふりをして落としてしまったという。どっちみち糞になるのだから、そうしたほうが手っとり早い。嘘か本当かしらないが、これもまた足穂らしいエピソードである。

嵐山光三郎『文人暴食』「稲垣足穂」(新潮社)

午後十二時半起床。やはり土日と休日の月曜日だけは二度寝に引きずられてどうしても正午を過ぎてしまう。「自分に甘く、他人にも甘く」がモットーのオイラとしてはべつだん悔いることでもないのだけど。朝食は柿ピー、緑茶。緑茶を濃くし過ぎて飲むとあとで急に低血糖的な脱力感を覚えるので注意。きのうは五時四〇分まで図書館で調べ物あるいは書き物、そのあとイワカミさんと合流、人事万般にわたるお喋りをしながらある中華料理店へ向かうもやたら混んでいたので結局その隣の隣にあったアットホーム感の半端ないお好み焼き屋に入り美味なる焼きそばをおごってもらう。帰ってきたら日本シリーズ初戦が大変なことになっていた。阪神打線が球界のエース山本から四点も取っていたのだ(次の回ではさらに三点を奪った)。阪神の対策勝ちなのか、山本の自滅炎上なのか。彼はまだ日シリでは一勝もしてないそう。きのう俺は「三点取れれば人類絶滅」と書いたはず。そもそも世界というのは「unbelievableなこと」で満ちている。だいたいこの宇宙に生物なるものが発生・変化・増殖し、そのなかの一つがつねに「私」として経験(意識)されているらしいこと自体が度外れてアンビリーバブルなことなのである。山本の七失点くらいでは驚くべきではない。きょうの先発は西勇輝らしい。古巣相手。内外のコーナーを緩急自在に突きまくる老獪な投球を期待したい。5対2くらいで阪神が負ける気がするけど。

山田風太郎『人間臨終図巻Ⅲ』(徳間書房)を読む。
古今東西の著名人の臨終の様を切り取り集成したもの。気に入った。全巻揃えて枕頭の書としたいね。「メメント・モリ(memento mori)」といえば西洋のルネサンス・バロック期絵画の大事なモチーフ。要は「死を忘れるな」ということ。シャレコウベ(ドクロ)がその代表だけど、ほかに死神の鎌や砂時計などもある。そういえば学生の頃、メメント・ハヤシというあだ名を付けられたアホな友人がいた。森ライスよりは面白い。ときに「メメント・モリ」の説諭調はやや鼻につく。「明日死ぬとしてもそんな下らない生き方をするのかね」なんて言いたがる奴ほど薄っぺらに見えるのはどうしてだろう。「たとえ明日世界が滅亡しようとも、きょう私はリンゴの木を植える」なんて言った奴もいるそうだが、その「真意」を俺はいまだに理解していない。俺としてはまず「存在を忘れるな」と言いたい。「いまここ」に驚愕できないような愚鈍な感性が「死」について思索できるかよ。
本書のなかで一段と凄まじいのは稲垣足穂。こいつは「人間的」には最悪。もし同居していたら殺していたかもしれない。アル中で自尊心が無駄に高くて気難しい。だから俺は彼を北大路魯山人と同じ引き出しに分類してしまっている。この二人は顔も似ている。平岡正明の根拠なき確信によれば「顔が似ている者は思想が似ている」そうだが、魯山人の思想と足穂の思想はたぶんぜんぜん似ていないと思う。足穂は生涯、機械的な童夢宇宙を生きた人だ。その魔王的な人格はともかく、足穂の作物は他に類を見ないほど「モダン」であり、耽美的である。晩年、酒も飲めなくなったあとは、『一千一秒物語』や『少年愛の美学』など自分の著作ばかりを読み耽っていたという。「ひっきょう自分の書くものを理解できるのは自分だけ」といったこの悲壮感、嫌いじゃない。俺もこんなふうに孤独に死ぬかもしれない。

ある晩 唄をうたいながら歩いていると 井戸へ落ちた
HELP!HELP!と叫ぶと たれかが綱を下ろしてくれた 自分は片手にぶら下げていた飲みさしのブランディびんの口から匍い出してきた

『一千一秒物語』「どうして酔よりさめたのか?」

この甘美なるエッシャー的不条理夢。藤山寛美と岡田彰布はほんとうによく似ているね。抜け出せません。宇宙からは抜け出せません。

もう納豆パスタ食って図書館行くわ。予定通り三時四五分には入れるか。

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