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絵画教室で感じたこと

昨年、生まれて初めて小学生対象の絵画教室を参観しました。
テーマは風景画かポスターのいずれかを子どもが選ぶというものでした。
参加児童は高学年を中心に20名弱というところでしょうか。
子どもたちは夏休みの絵の宿題に助言を求めて集まっていたのです。

テーマが複数ある上に子どもたちはそれぞれに違う絵を描いているわけですから、助言する方も大変です。
しかし、70代の元小学校教師の講師は一人ひとりに的確な助言をしておられます。
そこからは、かなりの経験や技術、アイデアをお持ちの方だということが伝わってきます。

ただ、気になったのは子どもが鉛筆で描いた下書きに容赦なく「ダメ出し」をして、あっさりと消しゴムで消してしまうのです。
子どもにとっては、自分がそれなりに一生懸命考えて描いた下書きをいとも簡単に消されてしまうのですから、当然意気消沈してしまいます。
中には明らかにふてくされてしまっている子もいます。
講師さんはそんな子にもお構いなく、消しゴムを走らせながら「なぜ、駄目なのか」を一方的に説明しています。
しかし、一旦ふてくされてしまった子どもは聞く耳を持ちません。
体を横に向けたまま憮然とした表情です。
講師さんにとっては「間違いは間違い」という確固とした信念があったのでしょう。
けれども最後に、講師さんがしびれを切らして、ポスターの中の言葉(例えば「火遊びはダメ」など)のレタリング(下書き)をあっという間に描いてしまったのです。
子どもはもうただ茫然と立ち尽くすしかありません。

私は、「ああ、この人が現役の教師だったころはこういう指導が当たり前だったんだろうなあ」と感じました。

それにしても、レタリングまで講師が描いてしまったら、それはもう子どもの作品ではなくなってしまいます。
絵の指導など一度もしたことのない私には、何も言う権利はないのかもしれませんが、いくらそれが「正しい」描き方だとしても、果たしてそれが教育的に「正しい」のかと疑問を抱かずにはいられませんでした。
いきなり消された子どもからすれば、自分自身を否定されたような気になったかもしれません。

そんな様子を見ているうちに、私には別の思いが浮かんできました。
確かに、否定された子は自信をくじかれてしまってはいるでしょうが、これは「本物」のレタリングを目の前で見る貴重な機会なのかもしれないと思ったのです。
ここに集まった子どもたちは特別に絵の勉強をしているわけではありません。
絵の才能を伸ばすために専門の先生について勉強している子はいません。
目の前であっという間に素晴らしいレタリングが仕上がっていく過程を見て、あるいは出来上がったレタリングを目の前にして「すごい」と思ったに違いありません。
もしかしたら、こんな経験は今後二度とないかもしれません。次に自分で何かを描くときに役に立つこともあるでしょう。

近年の学校教育では、自ら課題を見つけ、自ら考え、課題を解決する力が重視されています。
所謂「探究」する力です。私もその理念には賛同する一人です。
理想の教育を語る多くの専門家や研究者も、「型」にはめる教育は良くないと警鐘を鳴らしています。
しかし、それを本当に実現するための具体策については多くを語ってくれません。
また、語ったとしても大抵は、教師の授業に対する考え方や、教授法レベルの考え方にとどまっているように思います。
けれども、この問題の本質は、そういうところにあるのではなく、学校というシステムそのものが制度疲労を起こしていることから生じているのです。義務教育において本当に、自ら考える子どもを育てようとするなら、今の学校の枠組みから抜本的に考え直さなければいけないと思います。

例えば、高校入試のシステムを変え、入試問題の内容を子どもの創造力を試す問題にすれば、中学校の授業は変わらざるを得ないでしょう。
また、学力も認知能力も大幅に差のある子どもたちが、学年・学級という枠に強制的に集められています。「探究」的な学習や「アクティブラーニング」といった理想を重視して日々の授業を行えば、まさに「できる子」しか実質的に参加できない授業になってしまう可能性もあります。
基礎をしっかりと身につけていない、あるいは何らかの理由でそれができない子に対して、いくら「探究」的な授業を展開しようとしても難しいでしょう。

そうなると、「できない子」は基礎学力すら身につけられないまま、今まで以上に置き去りにされてしまうことになりかねません。
レタリングの技法の基礎を知っているからこそ、それを自分の発想に合わせて表現する絵が描けるわけです。

前回の学習指導要領の改訂のときだったと思いますが、「習得」「活用」「探究」を螺旋状に捉えて授業をすることが示されました。
この考えは、現行の指導要領よりもわかりやすかったと思います。
今、さまざまな要因で努力しようにもできない環境にいる子どもが増えています。
学年の枠を超えて生徒の「習得」(基礎的な知識や技能を身につける)の場面を意図的に作り出すことが必要だと思います。
総合的な学習の時間は、「探究」的な活動がメインになることが多いのですが、「探究」の過程で「習得」の不十分さが見つかったときには、すでに学習した内容を振り返る時間を設定することが必要でしょう。
そのためには、総合的な時間の授業では時間がかかり過ぎるテーマではなくポイントを絞った内容にして、「習得」に帰る時間の余裕を持っておくことが必要だと思います。
もし、可能であるならせめて月に一回くらいは学年の枠を取り除いた「習得」の時間を設定するのもいいと思います。
「探究」の授業は、調べ学習や体験活動とイコールではありません。

「探究」が「探究」であるためには、それに必要な「習得」と「活用」が必要です。
そこにいつでも戻れる状態にしておかなければ、理想は絵にかいた餅になってしまうでしょう。

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