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学校をチューニングする

昔、ほんのちょっとだけフォークギターをかじっていたことがある。
音感の良くない私にとってチューニングは悩みの種。
そんなときある先生から教えてもらった。

「微妙に音が合わないと思ったら、一度大きく弦を緩めて、まったく違う音にしてみる。そこからもう一度最初からやると意外とすんなりできる。
いつまでも微妙な違いのままで、微妙な調整をしようとすると余計に正しい音がつかめなくなる」

学校に係る様々な問題を考えるときも同じではないか、と思う。
先入観を捨てて思い切った「弦緩め」の発想をしなければ、解決の糸口は見つからない。

例えば「フリースクールは、国家の根幹を崩しかねない」と発言して炎上した市長がいたが、それがなぜ問題なのかというと、
視点が近視眼的で、本質がわかっていないからである。
つまり、不登校が増えているのは、不登校の子どもやその家庭に問題があるのではなく、旧態依然とした学校のシステムの方にある。
そのことがわかっていないからだ。
なぜわからないか、それは視点が現存するシステムにしか向けられていないからであり、既存のものを既存のままにした上での発想でしかないからである。

ついでに言わせてもらえば、文科省の取り組みも同じである。
スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーの充実や、「学びの多様化学校」(旧不登校特例校 現在全国で24校)や教育支援センターの充実を謳っているが、結局どれも、既存の学校のシステムにテコ入れするものではない。
悪く言えば、対症療法なのだ。
これも近視眼的であると言わざるを得ない。
「弦」の緩め方が中途半端なのである。
学校本体を変えなければ、不登校は減りもしなければなくなりもしないだろう。

不登校問題の本丸は、学習指導要領の位置づけの見直しと大学・高校入試制度の改革であるはずだ。

既存の学校以外にも「居場所」はありますよと、いくら声高に叫んでも、
進学に不利になると思えば既存の学校に通うしかないと考えて当然である。
その学校に行けないから、不登校の子たちは苦しいのである。
不登校特例校を「学びの多様化学校」と名前だけを変えても本質的な解決にはならない。
せめて、「学びの多様化学校」からの公立高校入試は具体的にどのようになされるのかをもっと積極的にアピールすべきだ。
多様化学校では学習指導要領の内容を3割程度減らせるらしいが、そこに通う子どもの調査書の評定はどうするのだろう。
最終的に、既存の学校と同じ土俵に戻されるのでは意味がない。
そういう疑問に十分応えているとは思えない。

そもそも調査書自体が問題である。
本当に公立高校入試に調査書は必要なのか?
そこまで「弦」を緩めて議論しないと時間と歳費の無駄遣いにならないか。
文科省は、将来的に「学びの多様化学校」を全国に300校に増やすことを目指すと言っている。
そこまでやるなら、逆に多様化学校のやり方を既存の学校に導入していった方が効果的なんじゃないか?
調査書をなくせば、授業の自自由度が上がり、さまざまな可能性が広がるはずである。

先日、文部科学大臣が学習指導要領は学校裁量で変更できると言った舌の根も乾かないうちに、大学附属の学校が学習指導要領に沿わない授業をしていたことを問題視する発言があった。
大臣が発言する際には官僚が原稿を考えているんだろうが、大臣も官僚も学習指導要領の位置づけを正しく把握していないというのは、実に悲しい現実である。

学校という「音」を正確にチューニングするためには、学校とは何か、近代学校は今後も本当に必要なのかというレベルまで「弦」を緩めた議論が必要だと思う。

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