見出し画像

バリアフリー音声ガイド制作ガイドライン[前編]

MASC設立以来13年間、音声ガイド制作者を養成した講師、河野雅昭が執筆した「制作ハンドブック(ガイドライン)」を前編、後編にて公開します。
*掲載されている一部統計データ、状況は2011年のものですが、基本理念、考え方、学習方法などは普遍的なものです。

プロ養成講座の実績
・日本映像翻訳アカデミーとの共催、バリアフリー字幕&音声ガイドプロ養成講座。
(字幕・音声ガイド各2回 受講者 字幕35名 音声ガイド33名  計68名)
 全26期累計 字幕 369名 音声ガイド 241名 計610名

MASC活動履歴より

視覚障害者用音声ガイド
制作ハンドブック[前編]


1「音声ガイド」を考えるにあたって

 まずはじめに言葉の定義から入りたい。
視覚障害者の映像鑑賞を助ける音声情報は「解説放送」「副音声」「副音声解説」「音声ガイド」などと呼ばれ、呼称は定まっていない。視覚障害者を意識しないで「解説放送」「音声ガイド」といえば、番組出演者によるコメンタリー、美術館の展示品解説、歌舞伎などの鑑賞補助音声がイメージされることだろう。ここでは<テレビ放送を前提としたもの>を「解説放送」「副音声」「副音声解説」と呼び、作品をより楽しむための情報を視覚障害者に提供する<映画鑑賞のための解説>を「音声ガイド」として区別する。
 そもそも、「見えない」視覚障害者が「テレビを観る」ということ自体に疑問を感じる人もいるかもしれない。しかし実際には多くの視覚障害者が、テレビから情報を取得したり、テレビでドラマを楽しんだりしている。晴眼者(視覚障害者ではない人を「せいがんしゃ」と呼ぶ)の家族との同居生活にはテレビが入り込んでいるし、ひとりで暮らしていても、交流する周囲の人たちが、そこからかなりの情報を得ているので、共通する話題の情報源としてテレビを利用する必要性が生じる。もちろん、「この表をご覧ください」などと、いきなりフリップが出てきて、話についていけなくなるとか、速報のチャイムは聞こえても肝心の内容がわからない、といった不便は多々あるものの、それでも発せられる情報を糧とせざるを得ない現実があるのだ。

テレビ番組「解説放送」の現状

 テレビ局によっては、主に視覚障害者の情報取得を補助する目的で、副音声を使った状況解説ナレーションを部分的に提供しているところもある。現在、こういった「解説放送」付きで放送されている番組としては、NHKの『連続テレビ小説』『大河ドラマ』『きょうの健康』、学校放送番組の一部、民放では『それいけ!アンパンマン』『笑点』『徹子の部屋』『土曜ワイド劇場』などがあげられる。いずれの番組も、セリフなどの音情報と解説のナレーションとが重ならないよう工夫されているが、各社が番組ごとに試行錯誤していることもあって、じっくり聞いてみると、それぞれに特徴があることに気づく。場面転換のみの淡白な解説から、ラジオドラマのように登場人物の心理にも言及するものまで、さまざまなのだ。
 ともあれ、そういった番組を選べば、すぐに活用ができるのだから、テレビ放送では視覚障害者に対する情報保証の取り組みがかなり進んでいるように感じられるかもしれない。だが実際、地上デジタル放送において、総放送時間に対して副音声・解説放送の占める割合※はというと……

NHK(総合): 7.6% [前年度比+1.7%]
NHK(教育):10.7% [前年度比±0.7%]
在京キー5局平均:1.1% [前年度比+0.5%]
在阪準キー4局平均:1.2% [前年度比+0.6%]
※総務省サイト「平成23年度の字幕放送等の実績」より

という具合で、障害者対策として同様に思い浮かぶ字幕の付与と比較しても、その率は遥かに低い。

映画館での鑑賞方法

 では次に、視覚障害者がどのようにして映画を鑑賞しているのか説明しよう。
 テレビで解説放送が付いている場合は、リモコンのボタンで「解説付き音声」に切り替えができる。DVDであれば、「音声メニュー」を選択して「音声ガイド」を聞くことができる。
 だが劇場で映画を楽しむとなると、自分で切り替えはできない。そのかわり主に次の2つの方法で鑑賞することになる。1つは、テレビの副音声のように「解説付き音声」が会場のスピーカーから提供される方法。主に視覚障害者の行事や、映画のバリアフリーに関する啓蒙を目的としたイベントなどで採用される。もう1つは、FM携帯ラジオなどの端末を利用して「音声ガイド」を聞く方法で、必要な人だけにガイド音声を提供できることから、一般の劇場で公開される作品には、このやり方が多く採用されている。
 このうち、劇場公開映画の「音声ガイド」は、ほとんどがボランティアによって支えられてきた。当初は、晴眼者と視覚障害者がペアになって映画館に行き、耳元でこそこそと解説しながら鑑賞する、通称「こそこそガイド」だったものが、やがて映画館側の理解のもと、大勢を対象にした「ライブガイド」へと進化していった。映写室の小窓から覗いた映画をガイド担当者(=ディスクライバー)が実況中継し、FM送信機を利用して客席の携帯ラジオに届けるのだ。
 「音声ガイド」をFM送信するこの方式は、「たくさんの視覚障害者にも参加してほしい」という思いに支えられ、各地の映画祭などでさまざまな試みがなされてきたが、実はこれには「ライブガイド」とは別に、「事前に作り上げた音声ガイド」を送信するという方式もある。さらには音声トラックに音声ガイドを組み込んだフィルムを作って、劇場内のスピーカーから全観客に向けて「音声ガイド」を流す、という一般上映の形態も今では可能になっている。
 しかし製作・興行側からの提供という面で見てみると、2011年に劇場公開された441作品の邦画のうち、聴覚障害者対応字幕が付いていたものが60タイトルだったのに対し、音声ガイドが備わったものは5タイトルのみだった。音声ガイドを制作・収録するには相当な時間と費用がかかる、というのがその主な理由だが、特定少数への対応でしかないという発想からか、映画の製作者や配給サイドに費用対効果の計算がはたらいていることも事実だろう。さらにその内容に関しても「場面転換などの大まかな状況を説明した、台本のト書きに毛の生えたもの」という程度の認識にとどまっている面が見受けられ、それらが地に足の着いた普及を阻む要因となっている。

 劇場で映画を観たい、観て感動したいと思う視覚障害者(目的地まで自ら足を運んででも、である。)は大勢存在する。そういったアクティブな人たちが映画を楽しむ上で必要な情報が「ト書きに毛の生えたもの」などでは決してないはずだ。しかしながら、「では、あるべき音声ガイドの姿とは?」という問いに対する答えは、残念ながらまだ誰も見つけていない(はずだ)。「あるべき姿」などと大上段に構えたら、お堅い規則の集合体を連想してしまわれそうだが、「どういうガイドなら映画が楽しめるか?」と問い直せば少しは気楽に考えていただけるだろうか。
 前置きが長くなってしまった。これから先は、映画が視覚障害者にとって、もっともっと身近な存在になるよう、「音声ガイド制作の基本」を踏まえながら、その答えを探っていきたいと思う。

FMラジオをに音声ガイドを流す上映会

2「映画を観る」ということ

その前に確認を。
これから考察する「映画」とは、主に「劇場で公開される」映画であり、「音声ガイド」も劇場公開の際に付けられる「事前収録型」の音声ガイドを指すものとする。なぜ突然、前述のように2011年に公開された邦画441作品中、たった5タイトルしか劇場で流されなかったレア・ケースの音声ガイドを考察の柱に据えるのかというと、それはこのケースこそがもっとも難易度が高く、かつ視覚障害者にとってもっとも手の届きにくい所に位置しているからである。つまり、この難関さえ克服すれば、それ以外の作品には臨機応変の対応ができるようになるのではないか、との期待をこめて、あえていきなりエベレストを目指すのである。

 私が音声ガイドと出会ったのは、「シティライツ」というバリアフリー映画鑑賞推進団体の掲げた「視覚障害者と晴眼者が一緒に劇場で映画を観て、共に笑い、共に泣くことを可能にする」という理念に感銘を受け、その門を叩いたのがきっかけだった。(発足当初のシティライツには「バリアフリー映画鑑賞推進団体」なる立派な名称はなかったし、団体と言っても、それこそ「門」など構えていない小さなボランティア組織にすぎなかったが……)
 以来、「痒い所に手が届く音声ガイド」とは何かを考え続けてきたが、恥ずかしながら10年近く経っても、はっきり言えるのは「『痒い所』は人によって異なるものだから、一度にみんなを満足させられるような特効薬はない」ということくらいだろう。それに「掻き方(書き方)」にしても決まった法則などなく、「その都度、対処法を決めながら、『自分の手』のみならず『まごの手』だろうと何だろうとその辺にあるものを総動員して掻く」という、これまた大変にアバウトなものでしかない。ただ、そうは言っても何千時間かの悪戦苦闘の経験ならある。誰かが「音声ガイドの制作ガイド」を書かなければならない、と言うのなら、「ひとりのディスクライバーとして」を条件に、経験則をいくつかあげてもバチは当たるまいと思う。

 さて、では本題。ひと口に「映画を観る」と言っても、我々晴眼者はどのようにしてスクリーン上の作品を鑑賞しているのか? 「そりゃ、目の前で繰り広げられる事柄のすべてを自分なりに受け止めるだけさ」とか何とか答える人がいるかどうかは知らないが、そんな能動的な鑑賞というのは稀である。いや、まずあり得ない。我々は自分で映画を観ているつもりにさせられているだけで、実は、映像作家である監督に、彼(彼女)が切り取った現実、または彼(彼女)が作り出した虚構を見させられているのだ。そこが舞台上の芝居を観客席から眺める演劇との決定的な違いと言える。厳密に言えば、演劇も舞台というフレームで切り取った世界を見せられているし、一場劇でないかぎり、ひと幕ごとに特定の場所が特定の順番で作意をもって提示されるわけだが、少なくとも観客席の観客は舞台上にあるものならば好きなものを好きなときに自分の意志で「観る」ことができる。
 それに対して映画は、監督が定めたカメラ・アングルとフレーム・サイズによって、「まず彼女の表情のアップ」「はい次は、彼の手のリアクション」「はいその次は、走り去る彼女の車」という具合に有無を言わせないところがある。我々は首根っこを押さえられて「これを見ろ、あれを見ろ」と監督の言うなりなのだ。(ただし巧妙な監督ともなると、こっちが見たいと思うものを見たいと思うタイミングで差し出してくるので、なかなか作意を見抜くのが難しいのだが。)
 ということは、同一のシーン内ならば、カット(ショット)が変わったときに、前のカットにはない新しいものが映っていれば、それが監督が我々に見せたかったものであると言える。つまらないことを言っていると思われるかもしれないが、手品に例えると、タネさえわかってしまえば、もう手品師のフェイントには騙されない、というのと同じだ。

 それで何が言いたいのかというと、手品師、いや監督がいかに観客の目をごまかしてさり気なく何かを見せようとしても、もうこっちはその手には乗りませんよ、ということをディスクライバーたる者が常に意識してさえいれば、画のツボを外すことなく、映画の文脈ならぬ「映像脈」を読み解くことができるはずなのである。

3 何度でも観る

 私は音声ガイドを制作、監修する際、時間の許すかぎり常に何度でもその作品を観るようにしている。これ以上観ていると締め切りに間に合わなくなると、あらかじめ自分で見当をつけておいた時間帯に追い込まれるギリギリまで原稿には向き合わない。そうすることで、いざ執筆となると、引き絞られた弓から矢が一直線に的に向かうかのようなエネルギーの爆発を得られると信じているからだ。(理屈っぽいと嫌われるので、観念的なお話はここまで。)​

​ しかし、それとは別に、何度でも観ることには次のメリットがある。

①監督の語り口、つまり映像によってストーリー を語っていく彼なりの方法が身につき、やがて は自分が監督に成り代わって、その物語を自分 のストーリーとして人に伝えられるようになる。 これ、ディスクライバーの基本。
②ドラマの流れ(=起承転結)、ならびにこの作品 で監督(または脚本家)が一番言いたかったこ と(=ツボ)が見えてくる。
③画面の隅々にまで気を配ることによって、見落としや勘違いが防げる。

 少し補足しておくと、①でいう「監督に成り代わって」というのは、自分が監督になったつもりで勝手にストーリーを語る、ということではない。それとは正反対に、自分勝手な解釈や早合点が入り込む余地がなくなるほど監督の考えが自分の頭の中に充満し、監督の視点で物が見えてくる、という状態を指す。それから③でいう「見落としや勘違い」だが、ただ漫然と画を眺めているだけでは何度観ても意味がない。むしろ、最初のイメージがどんどん固まってしまい、誤った情報が頭の中で定着してしまう恐れがあるので、作品に向き合うたびに新たな注目点を設定して、別角度から観察するようにしないと逆効果になる。
 ついでに言っておくと、音声ガイド原稿を書く際は、「セリフ起こし」も自分で行うことをお勧めする。原稿の書式に関しては後述するとして、いかなる書式の原稿であっても、音声ガイド(ナレーション)を収録するためには原稿にセリフがすべて正確に記載されているほうが圧倒的に作業効率がいい。ところが、実際にセリフを書き出してみると、この作業は思いのほか労力を要することがわかる。ガイド本文のクオリティとは直接関係がないため、できることならセリフ起こしは他の人に手伝ってもらいたい、字幕データがあればそれを転用したい、と考えたくなるのは人情だ。
しかしながら、このセリフ起こしには、何度も映像を観ることに通じるものがある。先ほどの①〜③がそのまま当てはまり、なおかつ、

④作品の理解が深まる。
⑤登場人物への愛着が生まれる。
⑥「セリフだけでは意味不明な箇所」が見つかり、 どこら辺にガイドを入れないと視覚障害者にとっ てわかりにくいか、見当をつけることができる。
という効能があるのだ。

ここから先は

5,794字

¥ 500

よろしければ、サポートをよろしくお願いいたします。 バリアフリー映画の普及に使わせて頂きます。