本を読めるとは

引きこもりの私にとって、読書はとてもありがたい時間の使い方です。ですが、とにかく本を読めなくなっていると感じることが多くなりました。そこで、本を読むとはどういうことなのか、一度初心に帰り考えることにしました。

1.受動的な読み方

ショーペンハウエルは自身の著作「意思と表象としての世界」の付属の章「読書について」で、受動的な多読の意味のなさを指摘しました。

たとえその本がどんなに優れていても、どんなに素晴らしい文章表現でも、それは読んだ人が作ったものではない。既に過去となった人間が書き上げたものをただ読んでいるだけ。そのことだけを持って、知識を得たと感じるような読書はいけないというのです。古着を何着も着重ねるようなものだと。

それよりかは、自分で物事を考えながら、1冊を読み切ることのほうがあるかに有意義であるというのです。

志賀直哉もこのような言葉を残しております。

「そこから生まれ出ることのない博学はくだらない。知識のコレクションなり。」

インターネットが発達し、知りたい知識は無尽蔵に発掘し、蓄えられるようになりました。しかし、例えどんなに知識を蓄えても、それを活かさないで、知っているだけの状態であれば、習字の手本をただひたすらになぞっているだけで、いつまで経っても自分の字というものが書けないままなのです。

2.能動的な読み方

知識を真に役立てたいと思うなら、常にその知識に対して疑いの目を持つなど、自分の経験から習得した自分だけのモノの考え方で批判・検討をすることが能動的な姿勢というもので、本に対してもそのような姿勢を抱いて読めれば、より印象深い知識となり、忘れることのない知識となり得るでしょう。

私も、最近本を読む時、自分ならどうこの文章を書き直すかをよく考えます。そのため、読書の時間が今まで以上に時間がかかります。でも、不思議とその考えたことと相まって、読んだ内容が残っているのです。

昨日までデュマの「三銃士」を途中まで読んでいましたが、以前読んだセルバンテスの「ドン・キホーテ」のドン・キホーテのいつまでも夢見がちな性格が、パリでの立身出世を目指すダルダニャンに重なり、2人がもしスペインとフランスの間で戦争でも起きた時対峙したら、名誉ある口上をひたすらに唱え続け、周りの戦士たちを呆れさせるのではないかなどと想像しました。

単に読むというところを脱するだけで、何と読者が人生に面白みを与えることか。そんな風に思えました。


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