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夜想曲(短編)5 完結

 浅い川に朱色の橋がかかっている所へと出た。頭上には大量の藤が垂れ下がり、空を隠していた。花のトンネルは青や紫の鉱石が眩しく光る洞窟のような場所へ続いている。少年は狭い星空のようなそこを駆け抜けた。

 辿り着いたのは海。あり得ないほど大きな、古い木造船が座礁鯨のように半分砂浜に乗り上げて、斜めに倒れている。きっとこの船の持ち主は巨人に違いないと思った。

 恐る恐る近づいて、中へ入った。細い通路が続いている。壁に取り付けられた台があって、青い炎と赤い炎が交互に灯されている。等間隔に並ぶそれは、雨に濡れた草の匂いがした。

 そのうちの一つは、和蝋燭だった。和蝋燭は少年を見下ろしながら笑った。

「あら、こんばんは。君、あれよね。姉さんが言ってたわ。赤い星と虹の話をしたって。君のことでしょ?」

そうです

「ねえ、この先に面白いものが待ってるわ。狂気的な宴よ。不安がらないで、兎に角行ってみなさいよ」

わかりました

「迷っても、信じて進みなさい」

 少年は入り組んだ木造の回廊へと足を踏み入れた。柱は朱色に塗られ、所々、ひび割れから小さな苔のような植物が生えている。天井には、淡く光る裸電球が吊るされている。

 少年は一人きり、どこへ繋がっているのかもわからないまま歩き続けた。全く変わることのない景色を、右へ曲がったり、左へ曲がったり、繰り返した。シミだらけの古い床はギシギシと音を立てた。少し先に、光が漏れ出ているのが見えた。その光の方へ走った。

 回廊を抜けた先には、和の雰囲気の漂う天井の高い、とてつもなく広い空間が広がっていた。少年はなぜか二階にたどり着いたようだった。太い柱が張り巡らされ、奥の方では、細い滝が流れている。それを利用して、一階には小さく浅い池が造られている。無音の空間に水の音と、獅子脅しの音だけが響く。

 突然灯りが消えた。音楽が聞こえ始めた。琴の音だ。少年は傘を開いて、それと提灯の光を頼りに音の鳴る方へと足を運んだ。どこからか大量の青く光る花弁が飛んできて、少年の周りに集まった。しばらく探し回ってようやく見つけた襖を少し開くと、眩しい白い光が一気に噴出して、床にぼたぼたと落ちた。よく見ると床に落ちた光の正体は絡繰の蟲だった。少年は恐る恐る隙間から中へ入った。

 そこは豪華絢爛と言うに相応しい装飾の施された広い座敷だった。少年は、自分の二倍くらいの高さのある壺の裏に隠れた。部屋の中央には長く大きな机がいくつか並んでいて、その周りを紫色の座布団が囲んでいる。そこに座っているのは妖怪たちだったが、少年の知っている姿はなかった。

 猫の面をつけた和服姿の人形たちが、長方形の漆塗りの箱に入った何かを運んできて、机に置き始めた。遠近感が狂っているらしく、全てのものが大きくなったり小さくなったり、不安定に変化する。妖怪たちは箱の中身を摘んで取り出して、丸呑みにした。

 人間だった。大人だ。一人、二人、三人、そして四人目のあの人は、虹を探していた青年だ。またね言った彼だ。それを喰ったのは、右腕に火傷の痕がある妖怪だった。少年は鞄の中の鏡をもらった日のことを思い出した。

 音楽に身を委ね、面をつけた人形たちが舞を披露し始めた妖たちも体を揺らしている。そちらへ夢中になっていると、誰かが少年の足を殴った。驚いて目を向けると、そこには終末堂で羽縫いの仕事をしていたあの捻くれ者の薄紅が立っていた。

「お前、そんなところで何してるんだ?」

わからない

「変なやつだな。自分の意思で動いてるはずなのにわからないなんてさ。誰かの掌の上で踊らされているんじゃないか?」

そんなことないよ、多分

「冗談だよ。安心しな、俺たちは大人しか喰わせない。だが、喰われないとは言えないな。腹をすかせた妖どもは、何をするかわからない。さっさと帰りな」

どうしてそんなことをするの?

「さあな。俺はなんとなく他の小人たちについて此処へきただけだから本当のところは知らないが、あいつら曰く、復讐らしい。俺たちを喰いやがった人間たちへのな。だけど俺はそんなことは無駄だと思っている。故郷を忘れ、店員としての誇りを持って終末堂で働いていた奴らが、今になってぷぷらとしての尊厳を思い出して復讐するだなんて、馬鹿げてる。俺から見れば、これは仲間を裏切ったことへの罪滅ぼしか、あるいは単なる憂さ晴らしだ。全然復讐なんかじゃない」

やめさせられないの?

「やめさせたいのなら、お前がどうにかしろよ」

わかった

「おい、本当に行くつもりかよ。おかしな奴だな」

 少年は爺にもらった狐面をつけてから、壺の裏に隠れるのをやめて、大きな妖怪たちの方へと行った。火傷の痕のある妖怪の方へ行って、話しかけた。

こんばんは

「……」

あの、人を食べないでもらえませんか?

「……」

 妖怪は返事をせずに、少年の前でまた一人、人間を丸呑みにした。少年は巨大な妖怪たちの間に正座をして、空になった箱が積みあがっていくのを眺めた。

「……ウマイ」

 妖は少年の前に人間を置いた。遠近感の狂いで小さくなっている人間は、人形のようだった。妖は爪の先で少年の髪を撫でて、唾液まみれの口で笑った。おいしいものを分けてくれようとしているんだと、ちゃんとわかった。

ありがとう。でも、いらない

 少年は立ち上がって、壺の方へと戻った。人形はぼくの顔を見て鼻で笑った。

「無理だったみたいだな」
 
うん

「なら、このまますぐに諦めろ。この世を動かせるほど、お前は強くない」

嫌だよ

「まあ、勝手にすればいいさ。全部、決めるのはお前だ。俺に判断を委ねるな。何かあった時に俺のせいにされちゃ困るからさ」

ごめん

「謝る必要はない。兎に角、肝心なのは諦め時だ。俺にはそれしか言えない。俺はそろそろ仕事に戻るけど、最後に聞きたいことはあるか?」

青い肌の鬼を知らない?

「ああ、そいつなら向こうにいる。人を喰うのは嫌なんだとよ。変わった奴だ。まあでも、人を喰って無理やり生きながらえても知能は低下し続けて、より化け物として完成されていくだけだからな。これ以上醜くなりたくないのかもな。お前の知り合いか?」

うん

「なら、さっさと別れの挨拶をしてきな。お前のことはお前が決めろと言ったが、別れってのは思い通りにはいかない。お前にはどうしようも無い。だから、もう一度会いたいなら、はやく行きな」

 少年は頷いて、ひっそりと部屋を出た。狐面を外して、暗い船内を早足で進んだ。月明かりが差し込む窓のある場所に着いた。鬼が壁にもたれながら座っていた。光に照らされていて、綺麗だった。同時に線香の匂いが強く漂っていて、嫌な予感がした。

こんばんは

「ああ、君か。こんな最果てのさらに果てで再開するなんてね。ここは空気が澱んでいる。はやく外へ出なさい。君の瞳が汚れてしまうことを、私は望まない」

一緒に行こうよ

「いいや、私は定められた最期に従うよ。孤独の中でこそ、静かに消えていける」

他の妖怪たちは?

「あの頃の妖たちは皆消えてしまったよ。昔の百鬼夜行はね、人を喰わないと誓った者だけが、己の消滅を受け入れた者だけが参加できた。それが、妖の間で受け継がれてきた掟だと爺が言っていた。だから私も誓った。人は喰わないと。けれど、時代は変わってしまった。ここにいるのは掟を破った者と、初めから百鬼夜行に加わらなかった者だ。彼らは人間の、真の瞳を喰って生きながらえている。ただ一人、私だけは最後まで、爺との約束を果たすと決めているんだ」

人を喰わないでって、他の妖怪たちに言えませんか?

「喰われる側の君なら言えるだろうね。私は本来喰う側の人間だ。なぜ人を喰わないのかと聞かれても、爺との約束だからとしか答えようがない。どういうことかわかるかい?」

わからないよ

「この世界には、人を喰ってはいけない理由も、人を喰っていい理由もない。そういうことだよ」

わかりたくないよ

「私は、私の意思で消えることを選んだだけだ。他の誰かの価値観を矯正することはできない。すまないね」

もうすぐ消えてしまうのですか

「そうなるだろうね」

やだよ

 少年がそう返事をすると、鬼は真剣な顔つきになって、低い声で言った。

「では君に問う。私は君を喰えば生きられるだろう。その身体を、目を、私にくれるかい?」

……ごめんなさい

少年は小さく呟いた。怯えた顔をした少年を落ち着かせるように、鬼は優しい顔に戻っていった。

「いいや、それでいいんだよ」

 鬼は微笑んだ。ゆっくりと手を少年の頭に乗せた。冷たい大きな手で包まれる心地よさを、懐かしく感じた。

「さあ、行きなさい。君の望む場所へ帰れなくても、行きなさい。此処へいてはいけないから。君は私のようになってはいけないから」

さよなら

「さようなら、翡翠の少年。君に会えてよかった」

ぼくもです

 握手を交わしたその時、背後から重い足音がいくつも鳴り響いて、巨大な妖怪たちが凄い勢いで押し寄せてきた。何本も足が生えたやつや、ヌルヌルと目元を光らせているやつ、鮮やかな色の羽のついた美しいやつ、真っ黒な煙を撒き散らすやつなどが、壁いっぱいに溢れかえりながら向かってくる。少年は思わずじっと見つめてしまった。怪しく狂った彼らに惹かれて、息をするのも忘れるほどに見入ってしまった。

 その時、鬼が妖の目の前に立って、少年を庇った。口の裂けた妖怪に左腕を喰われた。鬼は落ち着いた様子で少年を見て微笑んだ。

「行きなさい、はやく」

 鬼の身体はずるずると、妖怪の口内に引き込まれていった。妖怪の歯の隙間から彼の右手だけが外へ伸びてきた。線香花火を握っていた。少年はそれを受け取って、彼の手を握った。彼は強く握り返した。ああ、彼は生きたかったんだ、そう思った。その瞬間、彼の手は灰になって崩れ落ちた。

 少年は我に返って、思い切り走った。階段を登り、破れたガラスの隙間から外へ羽ばたいた。ほんの一瞬、満月に手が届きそうな気がした。

 翼を持たない少年は、そのまま海へ堕ちた。

 七

 海底に向かうにつれて暗くなっていく。何故だか息ができた。手持ち提灯も傘も流されてしまった。代わりに少年の手に握られた線香花火が強い光を放った。巨大な光る海月が数匹優雅に泳いできて、地上よりも明るくなった海底。

 少年はゆっくりと沈み続けた。海月に照らされて浮かび上がった傾いた建造物は、とても広く、崩れかけているみたいに不安定な形をしていた。螺旋階段に降り立つ、ずうっと下まで続いている。

 海月は通り過ぎてしまって、また暗くなった。錆びた階段を、線香花火を頼りにして一段ずつ降りていった。足音が響いて、強くなる孤独。

 階段を廻りながら着いた先は、古びた図書館のような広い空間で、壁一面に棚が取り付けられていた。しかし、そこには数冊しか収納されていなかった。棚のほとんどが空っぽだった。

 薄暗い部屋の中心に木製の机があって、その上に置かれた小さな電気がチラチラ光っている。線香花火は消えてしまった。少年はそれを鞄にしまって、机の方へ近づいた。そこでは少年と同じ年くらいの少女が何か作業をしていた。

 彼女の身体には所々宝石のような鱗が生えていて、青白い肌が見える部分には、掻きむしったような傷が沢山ついている。なんだか痛々しく、美しいとは思えなかった。

 こんばんは

「こんばんは。お客さんなんて久しぶり」

 ぼくの他にもいたの?

「随分と前にここに流れ着いたお人形さんがいたわ。青い帽子を無くしちゃったんだって。帽子の行き先を追いかけられるように小さな魔法の羅針盤をあげたんだ。今はcatastrophe駅の近くにあるみたい」

 それを聞いた少年は安心した。同時に、この少女が何者なのか、気になった。

何してるの?

「私はね、物語を書いているんだよ。とても愛らしい民たちが見ている夢のお話」

 この海底の図書館に訪れる人はほとんどいないだろう。この最果ての地に本屋なんて存在しないだろう。踊り明かすのが好きな生き物ばかりのこの地で、彼女の物語の読者なんて、彼女自身しかいないんじゃないだろうか。こんなところで一人寂しく、誰に見せるわけでもなく書き続けている彼女は、これからも独りぼっちだろうか。

 そうして考えを巡らせていると、彼女は顔を上げて、少年の心を読んだかのように静かに言った。

「勝手に可哀想だとか、思わないでね。私は独りぼっちでも、寂しくない。誰も私のことなんか知らないままでいてくれる方が楽なくらいだもの」

 ごめん

「いいよ、別に謝んなくても」

 少年は彼女の手元に置かれた数冊の本を見た。タイトルも、作者名も書いていなかった。不思議だと思って首を傾げながら彼女の顔を見た。少年が失くした目と同じ色の、黒い目が綺麗だった。彼女はまた、見透かしたように、少しだけ微笑んだ。

「さあね、名前なんか知らない。私の名前も、その本の名前も。一つ言えることがあるとすれば、私はね、宇宙から来たんだよ。遠い遠い鯨座の星。それだけのこと。だから何も知らない。知りたくもない。正確には、思い出したくないのかもね。要らないんだよ、私が歩んできた道だとか、生きた証だとかそんなものはさ。君もそうでしょう?」

 わからないよ

「こっちへ来て」

 少女はペンを置いて立ち上がった。彼女が向かう方へついていくと、小さな部屋が現れた。少女が端に置かれた機械のハンドルを回すと、壁一面に真っ白な幕がかかった。それから、対面するように椅子が一つ、置かれた。弁柄色の布が貼られた木製の椅子だ。

 少年はなんとなくそこに座らなければいけない気がして、腰を下ろした。少女は手際良く、奇妙な形をした彼女の身体よりも大きな機械を準備し始めた。

 どうやら映写機のようなものらしく、剥き出しの歯車がいくつも複雑に重なっている。彼女はフィルムの代わりに一冊の本を取り付けた。

「ゆっくり瞬きをして」

 少年は目を閉じる。それから醒ます。目の前に、白黒の荒い描写の世界が広がる。ゆっくりと、ぽつりぽつりと、映写機の歯車に繋がれた鍵盤の音が鳴る。暗闇によく似合う、ピアノの音。

 幕の向こうの世界では汽車が走っている。それからcatastrophe駅について、乗客が降りた。出てきたのは少年だった。無声映画みたいに、時が流れていく。これは自分の記憶だとすぐに気づいた。

 暫く物語は進み、少年がこの図書館へ来たあとの、街の映像が流れ始めた。少年がいない街の様子。星が降り始めた。それは一つ二つと増えていった。

 流星群になって、降り注ぐ。それから空中で大きな花火になって、光が散っていく。きっと赤い星だ。あれは赤く燃え盛る、誰かの憂鬱を乗せた星だ。綺麗だ。そう思った。

 少女はそれを眺めながら、呟く。

「この地に揺蕩う迷い人たちはいつ見ても美しい。君も、ずっと美しい。美しいままで、時を止める。それでいい、作品に閉じ込められた永遠はそうでなければいけない。ありがとう。さよなら。愛しい我が子。行きなさい。君は少しの間、自由になれる。最後の三ページは白紙だから。誰も未来の君とは出会わないのだから」

 本を見ると、ほとんど全てのページがめくり終えられようとしていた。彼女は真っ白な幕を指さした。少年は立ち上がった。映写機に取り付けられた記憶の表紙を見る。綺麗な翡翠色だ。あそこにいるのが本当のぼくだ。

 ぼくは今からエンドロールを歩いて、ぼくをやめていく、忘れていくのだろうか。その先は無の世界か、新たな世界へと続く道か、どちらだろう。ぼくは何処からきて、何処へ向かうのだろう……。

 本がまた捲られた。そこには線路、とだけ書かれている。幕の奥の方へと、錆びた線路が現れた。そこへ汽車がやってくる。

  ねえ、また会える?

 「誰かがこの本を開いたらね。繰り返すんだよ。世界は」

  繰り返す?

 「そうだよ。だから、この世界は、この夢は、永遠なんだ」

 少女は穏やかに微笑んだ。

 「さよなら、良い旅を」
 
  さよなら、またね

 少年は幕に触れた。身体はするりと通り抜けて黒くぼやけた影になった。振り返ってみても、誰もいない。何もない。奥の方では、汽車が待っている。

 ぼくを待っている。

 だから ぼく は、
真っ 白  な 
世 
 界  を
  あ
    る

 て

         い

     く

  だ

        け

    。




 線路。汽車。少年が乗り込む。後、三頁白紙。



 ダ・カーポ

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