突発性難聴?


その日の朝、起きたとたん聴覚がおかしくなっていた。
歯磨きのとき、歯ブラシの音が右耳の内側に大きく響くのに気づいてギョッとした。
なんだかわかんないけど、とにかくやばい!
すぐに近所の耳鼻咽喉科医院に予約して出向いていった。

小雨の日だった。
車を駐車場にとめて医院のポーチに駆け込んだとき、もっとゾッとすることに気づかされた。左耳がまったく聞こえないのだ。
受付を済ませた後、急いでiPhoneを起動して症状を検索してみた。
左耳の症状は、耳管開放症とぴったり一致した。
右耳の方は、どうやら突発性難聴というやつらしい。

名前が呼ばれて、聴覚検査室に入り、ヘッドフォンを装着された。右耳の方はいつの間にか症状が和らいで、音もほぼ完全に聞こえるようになっていた。
ただ、左耳は全然だめだった。
骨振動タイプのヘッドセットの検査でも同じことだった。
すべて済むと、いったん待合室に戻って診察を待つように言われた。

いったい何が起きたのだろう? 
そもそも突発性難聴そのものが原因不明の難病らしいのだが、患者に共通しているのは過労とストレスだという。思い当たる節がないでもないが、それほどひどいレベルだとは思えない。
それにしても、周りの音の聞こえ方がひどい。
人の声は割れているし、いろんな雑音もくぐもっていたり甲高かったり、とにかく不快だ。
騒音の真っ只中に放り込まれたようで、ますます気分が落ち込む。

ようやく順番が来て診察室に入る。
四十代前半ぐらい、ちょっと小太りの角ばった顔つきに四角い眼鏡をかけた男性医師。
診察椅子に座ると、モニターに映し出された聴覚検査のグラフを観ながら、問診を始める。
「右は完全に聞こえてるけど、左はレベル4か。ほとんど聞こえてないな…。今朝からですね?」
「たぶん…。気が付いたのは、ここに着いたときですけど…」
「耳鳴りは?」
「します。かなり大きな音です」
「これまでこういう経験は?」
「ないです。初めてです」
医師はふむふむとうなずき、デスクの上の漏斗みたいな道具を取り上げる。子供のころ中耳炎になったときに見たことがある。たしか耳鏡とかいっていたような。
「左耳を見せてください」
「はい」
横目で見ていると、医師は腰を浮かせて耳鏡を僕の左耳の穴に入れてのぞき込み、次いで内視鏡を取り上げてやはり同じようにのぞき込む。
「中耳や鼓膜に問題はないですね」医師は椅子に腰を下ろしつつ独り言みたいに言う。「突発性難聴ですね」
「右耳はどうなんでしょう? 耳管開放症みたいな症状なんですけど?」
「ステロイド治療ということになるんだけど」と、医師は質問が聞こえなかったような調子で続ける。「紹介状を書きますが、どの病院がいいですか?」
と、大学病院二つと日赤病院という選択肢を告げられたので、一番近い大学病院を選んだ。
「たぶん即日入院ということになると思いますので、準備していくといいですよ」
「は?」
「早いほどいいんです、ステロイド治療を始めるのは」
「ああ…、そうなんですね」
「そうなんです。じゃ、お大事に」
「はぁ…、ありがとうございます…」
僕としては、狐につままれたようなというか、まるでカフカの世界に放り込まれたみたいな気分だった。

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