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いつか死ぬのなら、せめて満足して死にたいので。

19年続いている私の人生。
それはとても虫食いが多いと、私の中で思い続けています。

0歳、オンギャー状態の赤ちゃんの記憶はそりゃあるわけ無いですけどね。

幼稚園のお遊戯会の記憶や

友達に罪をなすりつけられたような記憶。

先生の「(私)ちゃんは危ないからだめ!」に
「嫌だ」と反抗した記憶(先生がその後大慌てだったような気がしなくもない。)

父に馬鹿にされ続けた言葉の数々。

無知ゆえ、母の勧めるままに、
姉と二人からのプレゼントということで渡した、タバコという父へのプレゼントのこと。

リハビリ入院中。
外泊帰り、母の服にしがみついてギャン泣きしたこと、それを励ましてくれたお兄さんお姉さん。

病院でリハビリをしてくれた先生の顔。

覚えていることももちろんあるけど、
それ以外の空白期間もとても大きくて、

「世界に色がついた」とかっこいい言い回しができるような人生になり始めたのは11歳頃だと思います。

初めて声優という職業を知り、
憧れの人ができて、不登校からの脱却。

そのエネルギーを得られるほどには、
私は声優さんにすくい上げられて今があるし、

あの「この人みたいになりたい」と思った瞬間、その方のボケに一人で笑っていたあの時に、
私の人生が動き始めたと言っても過言ではないんじゃないかと、今でもずっと思います。

すごろくみたいに、いいことが1つあれば2つ3つの悪いことが襲ってきて、何度も死にたくなったし、自分を傷つける癖は今でもあります。

「この人みたいになりたい」と本格的に思ったのは、ほぼ14歳になる2018年頃で、その夢に挫けることになったのは、わずか2年後。

いろんな板挟みに加えて、
どうにもならない障害の壁と、体の限界。

今までにないほど自分の障害を憎み、
夢を持ったことに絶望したりもしました。

「出会わなければよかった」
なんて都合のいいことを思って、何日も泣きました。

「自分なんかいなければよかったんだ」
そう、今までの比にならないほど強く感じた夜。

それがやり場のない怒りに変わり、
勉強も脳に入らず、諦め、ただ絵を描いては眠り、泣きながらアニメを見ては無気力だった時間。

夢を持ったからこそ、見えた輝き。
その輝きの後ろにある闇に、まるっと二年ほどは取り込まれていたと思います。
(こういったお話はこちらのマガジンでも触れています)

そんな闇の中でも、結局私は役者さんを嫌いになることなんてできなくて、それどころか、今では声優のみならず俳優さんも大好きで、たくさんの作品に泣き、たくさんの作品に興奮し、希望を見せてもらっているわけですが、

そうやって這いつくばるように生きていくうち
2022年を迎え、そこで少しずつ、風向きが変わったんだと、今はすごく感じています。

中学入学後、メンタル的にポッキリと折れてつながりを切って以来、数年ぶりのリハビリ入院。

暖かなその環境に、荒んだ心が溶かされて行って、今まで表面に出てこなかったはずの自分の感情が顔を出して戸惑ったり、それを受け止めてもらえたことに驚いて、怯えて、時には拒絶したりもして。

自分のことを傷つけるほど、自分が向き合わなければいけない、車椅子購入問題に疲弊したりもしながら、そんなときも、たくさんの人に受け止めてもらって、いろんな人に話を聞かせてもらった結果、きちんと車椅子を受け入れ、購入が決定。

昨年2023年には、その受取も兼ねたリハビリ入院をし、お部屋の方々から「就職」「独り暮らし」等、自立という名の道についての話をたくさん聞きました。

その方が歩んできた、私とまた違う絶望についても、たくさん聞きました。

暖かく「退院」を祝われ、暖かく「またね」を交わして家に帰り、車椅子が身近にある生活になると、はじめは未だ、車椅子に抵抗ありましたが、車椅子を交渉材料に、初めて一人で電車に乗ることが叶いました。

そして、それから少しして、
夢のひとつだった「舞台鑑賞」が単身で可能になり、実際、車椅子に乗って、1作品を観劇することができました。

「車椅子を買ったからこそ、今自分はこれができているんだよ」と、自分自身に声をかけて、実感が湧いてくれば来るほど、とても言葉にできない高揚感を覚えました。

そうして、あのとき支えてくれる人がいてよかった、受け入れられてよかったと、改めて思い直しました。

11歳の自分は、数年後に、憧れていた舞台挨拶や舞台演劇が出来るだなんて全く想像もしていなかったし、どれだけの地獄がこの先待っているだろうとさえ思っていた気がします。

歳を重ねるほど辛いことが増えているように感じていたから。実際そうである時間のほうが多かったけれど、

落ちるところまで落ちて、這い上がって風向きが変わった今は、ほんの少し、不思議な感覚を覚えています。


2024年。年明け早々、多くの方が被災する結果となり、安全地にいる自分も、無意味ながらとても動揺し、現地の方々のことを考えると、涙が出てしまいそうなほど恐怖したり、不安になったりしました。

少額の寄付をしてみたりしたとて、すぐに現地が変わるわけでもなく、ネットでは、情報の暴走が起きていたり、攻撃性のあるリプライが飛んでいたり、真偽のわからないSOSを訴える投稿があったり、とても大きな混乱が起きていたように感じていました。

「地震大国」と言われるほど、日本では地震が多く、小学生の頃から数多く防災訓練を受けたり、防災センターに足を運んだりもしました。
しかし、その都度露見するのは、我が家の防災意識の低さばかり。

逃げるときは
「火の元線を切るんだよ」
「ブレーカーをおろしてね」
「警報が出ているときは必ず逃げてね」

普段から
「備蓄をしっかりとしてね」
「集合場所を決めておいてね」
「家具の固定をしておいてね」等々。

たくさんのことを教えられて、そのたび家で話題に出してみても、家族が言うのは「その時はその時」で、全く備えることをしない。

地震が起きるたびに不安になるのはそういった要因もあるのかもしれません。

自分で備えろよ

そう思う方もいるかもしれませんが、正直厳しいのです。

バイトもできないので、
自由に使えるお金は限られているし

仮に、備蓄をできたとしても、
保管する場所を確保(理解を得る)することが大変であったり、

持ち出しを作っていたとしても、
私の体では、自分で背負って逃げることは不可能です。

まして、普段から家で一人だというのに、
そんなうちには愛犬愛猫もいるので、万が一に彼らを置いて自分だけ逃げるなんて言うことは、
これまでたくさん彼らに救われてきた私としては、到底できない。

幸い私が住んでいる地域に津波は来ないことがハザードマップにて証明されていますが、警戒すべき点は「土砂災害」「自分の住んでいるマンションの倒壊」です。

一階である私の家は、倒壊しようものならきっと、完全なる生き埋めでしょう。

この先、少しスピリチュアルな話になってしまう部分もあるため、そういったお話が苦手な方はご自衛をお願いします。



2025年7月。

この数字に聞き覚えがある方も、中にはいらっしゃるかと思いますが、
この年に何かが起きることだろうと、所謂都市伝説的な部分も含め、たくさんのところで語られています。

それは「隕石衝突」だとか「南海トラフ」だとか、はたまた「首都直下型地震」だとか、数々の憶測がなされているようですが、憶測にとどまらずに備えている方は…どれだけいるでしょう?

陰謀論だ、ただの都市伝説だ。

その意見も、間違いではないのでしょう。
そう思うことも間違いではないですが、

南海トラフは科学的に「30年以内に来ることだろう(年々確率は上がっている)」と証明されているし、首都直下型に限らず、ここから先、地震が起きるか起きないかで言えば、
圧倒的に起きるように世の中ができているわけです。

備えたり逃げたり、障害の部分も含め、いろんな要因で困難であると察している、ある種で災害弱者である私は、今回の地震から時間が経つに連れ、少しずつ、マインドが変化していきました。

「万が一」ではなく、今後確実に起きるそれら「何か」に対し、怯えるし、いつか起きるんだと緊張もするけれど、それでも、自分にできる備えなど、ないに等しい。 

なら、今ある時間で何をしたらいいだろう?

両親の離婚後、父の呪縛か緩み、
やりたいことを少しずつ見つけられるようになってきて、少しずつ叶えたりもできて、変わっていっている。

もし仮に、自分が来年の七月、
その先の人生を歩めないとしたら。

その時が来たとき、
自分はどうすれば「あぁ、いい人生だった」
と言えるだろうと考えるようになりました。

今までは、そんな思考に至るたびに、
「いつか死ぬなら意味がないじゃないか」と無気力になっていたことを思い出しますが、

何故か今回はそれがなくて、
とても穏やかにストンと考えることができました。

結果、出てきたのは

学びたいことを学ぶ
抱きしめたい猫や犬を抱きしめる
感謝したいことに、人に、感謝する、ときに伝える
気になっている映画を見て、
気になっているドラマを見て、
読みたい本を読んで、
それらの感想を、見たり聞いたりする
書きたい絵を書いて、載せたりする
たくさんの人と話して、聞く

どれも当たり前だけど些細で、
いつかは忘れてしまうようなほど小さく、
しかし、とても大切なことばかりでした。

こういう感情を自分で感じ取れるようになったのは割と最近であるとわかっているので、そうではなかった時間がより空虚だったような気もするけれど、

自分の足を恨んだり、憎んだ時間も、
無気力だった時間も、記憶にない時間も全部、

自分が自分として生まれたからこそ出来上がった物語の一ページであり、

今こうして、好きなことを叶えるために必要な時間だったんじゃないかと思っています。

立ち上がるためには、立ち上がるための筋肉と筋力が必要なように、ときには無気力になってでも立ち止まらなければ、私はどうなっていたことやら、とも。

障害を持って生まれていると、
どうしても、可哀想だとか暗い子だなんてイメージを持たられるけれど、まっなくそんなことはないです。

そりゃきついもんはきついしら辛いもんは辛いし、そこを叫ぶ権利はほしい。

いつもいつも人と違う道を歩かなきゃいけないことが怖いし辛いときもある。

それは紛れもない事実だから、
辛がってるときは慰めていただきたいし、
時には笑い飛ばしてほしい。ただそれだけ。

そんなマインドで過ごしていた今日は、
歩いていける場所にある、とあるハンドメイド雑貨屋さんで、一つのペンダントを購入してきました。

どれもきれいで、どれも捨てがたい…。

けれど予算は限られているので、
じっくり悩んで、じっくり考えて、気に入ったものを一つ。

モチーフについての話を聞いたりして、
刺激的な時間を過ごし、いざ購入というレジ待ち時間。

穏やかで気さくなお店の方がたくさんのお話を聞いてくださり、聞かせてくださりました。

そのお話の一つが、ここまで話してきた「いつか死ぬのなら」というこのお話。

「もし生き延びて2026年を迎えられたのなら、それはそれで丸儲けだと思えばいい」

そう共感していただけました。

私が普段絵を描いているということも、話をしながら、言葉を聞いて見破っていたそうで、

まさかそんなことでわかると思っていなかった私は素っ頓狂な声を上げましたが、二つほど私の創作物を見せると

「柔らかい線を書く人ですね」と言い、

「この線は書こうと思って書けるものじゃないですし、この絵は、あなたにしか描けないものですから、ぜひ描き続けてください」というようなメッセージを下さり、

その後も何度も何度も「書き続けてくださいね」と言ってくださいました。

「あなたとは話が合うので楽しいです。

19歳で、それだけのことを達観しているのなら、これからもっといろんなことがわかったり、楽しくなっていくんだと思うし、

我慢を美徳だなんてそんなことは思わず、
自分の気持ちのまま、好きなことを続けて、
ストレスフリーに過ごしてください。

絶対に辛いことはあるけど、それだけ落ちるとこまで行って乗り越えてきてるから、きっと乗り越えられるし、必ずいい方へ変わると思います」

と言うようなことをお話いただき、穏やかに笑ってくださいました。

とても年齢差を感じさせない対等な話方をしてくださり、感謝しています。

親戚から「あんたは卑屈になってる」と言われたり「妙に達観してるところがある」とよく言われる私にとって、そんな次元を超えて

対等に「そうですよね」と言ったり「そうなんですか!」と言い合える人はとても貴重であり、とても有り難いものだと感じています。

「波長が合う」とお店の方が繰り返していましたが、まさにそうだったなと思います。

犬に救われてきた幼少期、そして猫に救われた受験期。
あの時間がなかったら、1代目の犬一筋で、
猫をこんなに好きになっていることはなくて

猫モチーフの雑貨を多く取り扱っているこのお店には来ていなかっただろうと思うと、それもまた、不思議な縁を感じます。


「ほんの少し裏道に逸れるだけで
 ほんの少し見方を変えるだけで
 ほんの少しのひとふりで世界はがらっと変わる のかも」

そんな私の好きなドラマ(漫画原作)の中で出てくるんです(気になる方は珈琲いかがでしょうを是非に)

私は体の特性上、長く歩くことは人並にもできないし、一人で電車に乗るだけで一苦労するような環境ですが、

ほんの歩いていける場所で、今日、こんな体験ができたんです。

まさに「ほんの少し裏道にそれるだけで」です。

そしてもう一つ。
今日、お店の方が取ってくださった「対等な姿勢」。

対等な姿勢でいてくれたからこそ、親戚からはときに煙たがられるような私の思考や価値観も、共感され、解れ、とても輝きました。

これもまた、私が今読んでいる「一線の湖」という小説の中の一つの言葉

「誰かのすごく良いところは、実は欠点のように見えるものの中に隠れてる」

に似ているなとじんわりしています。

誰と話すかによって大きく姿を変える。
だから、頭ごなしに「あぁ、これだめだったんだ」なんて思わなくていいんだなということを改めて感じました。

ただその人にとって「合わない」だけで
合う人は必ずいるんだと。

過去の出来事もまるごと抱きしめ、共感し、話す。今日お話した方はそんなふうに、とても暖かくて、話しやすく、とても聞き上手な印象でした。店員さんだからの態度だとしてもです。

一線の湖の前作、先は僕を描くに出てくる湖山先生もまた、線を見ただけでいろんなことを見抜き、多くを語らずとも人を諭す力があるような人で、

なんだか、店員さんと絵についての話をしながら、そんな湖山先生と話す主人公青山霜介くんの気持ちになったようでした。

これからもこうやって、日々、素敵な人と出会ったり出会わなかったりして

ときに落ちて、起き上がって行くんだと思うと、なんだかワクワクします。

間違いも失敗もして、後悔もして、恨んで憎んで。いろんな感情を殺してしまいたくもなったけれど、今は自分の人生が大好きです。

こんなふうに、時々素敵な人たちに出会えるし、この足だから見える景色があるとわかったからです。

人と違うことが当たり前のこの人生。
それを嫌い、恐れ、焦った時期もあって、それはそう遠い記憶じゃないくらい、最近までのことだし、

前述のとおり、災害も含め、時には健常者に比べて誰よりも弱者となってしまうこの人生だけど、

いつか本当に死ぬとき、私はどう思うかなんて、その有様はわからないし、これまでに出会った人たちの中には嫌いな人もます。

でもそれ以上に印象強く、私をたくさん支えてくれた人たちが大勢いるので、

そんな素敵な人たちに囲まれているこの人生が、生きている今は好きなんですよ。

ただ、私は愚かな人間なので、
今みたいに「この時に死ぬかも」なんて思っていないと、日常に溢れている小さな素敵なこと、幸せなことを見逃してしまうんだと思います。

愚かだからこそ、この「いつか死ぬんだぞ」精神をまた忘れてしまうこともあるかもしれない。けれど、それでも良いと割り切って行くのみじゃないかと思ってます。

未来に生きているか生きていないかなんて関係なく、明日は我が身…いつどこで死ぬかなんてみんなわからないのは当たり前で、なのに、自分を含めたみんなは、いつも明日が当たり前にあると思ってて。それもまた、人間だと割り切っていくように。

来年7月に何が起きるかは全くわからないけど、それにかかわらずとも

いつ何が起きたとしても、自分がいわゆる弱者になって、場合によっては死に至ってしまうかもしれないことが確定しているのなら、

2025年、もしくはその先…
いつか訪れる死の時まで、精一杯、自分が満足できる人生にしていこうと
2024年になった今は思っています。

何をしても人と違っていて、大それたこともできないけど、

たまには、今日のように自分にできる範囲で冒険してみたり、ワクワクするような好きなことをやって、今まで辛かった時間に対して、

お前は生きててよかったんだぞ
お前が生きてくれたから、今自分は楽しいぞ
そう言える時間を作ったりしたいと思ってます。

中には限界を迎えるまで頑張ってしまって、
精神疾患と闘っていたりして、到底そう思えない人もいることを私は形だけでも知ってるつもりです。

だからこそ、こんなふうに思えるほどに回復できた、回復を手伝ってくれる人がいた、若しくはいるということにもまた、自分は恵まれているんだろうなぁという気持ちもあります。

そんな恵まれてる人生だから好きなのかもしれませんね。私の最期を迎えたとき、どんな物語になることやら。


なんだか今回は無駄に長々と喋ってしまいましたね。

うまくまとめられませんでしたが、
過去を引きずろうが、未来を見据えようが、
今あるのは今でしかないので、ときには未来も過去も置いてきぼりにすることも大事だなと思っています。

さてさて…今日はなんだか、大好きな作品たちの主人公らの気持ちになれたような、とても刺激的でとても楽しい1日になりました。


帰り道には月が出ていて、シャッターの閉まった商店街夕暮れ時の街の姿があって、
とても穏やかなその時間が、愛おしかったです。


そんな感じで、少なくとも今日は、

私は自分を満足させることができました。

では、また。何か書きたいことが浮かんだ時は、
ここにひっそりおいていきます。


ここまで長く読んでいただいてありがとうございました。





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