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小籠包

初めて小籠包を食べた日を、今でも覚えている。私は10代の反抗期まっさかり、20世紀末である。場所は上海の観光地として名高い麗しの豫園、その敷地半分を占める商業施設、豫園商城内に店を構える南翔饅頭店である。豫園は、16世紀中頃に孝行息子が愛する父親へのプレゼントとして造園した美しい庭園で(庭園プロジェクトが壮大すぎてが完成したのが父親の没後であったという、なんとも上海らしいオチ付きである)、近年造られた隣接の商業施設も伝統的な建築様式で建てられている。中国の物産品や工芸品を取り扱う店舗が多く、日本でいえば浅草のような場所だ。

Sitomon - City God Temple, CC 表示-継承 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7119524による

その日はあいにくの天候で冷たい雨も降っており、私と同年の従姉妹は、人混みに疲れ、興味のない大人たちの買い物に辟易していたが、従姉妹だけお昼ごはんの店を聞いた途端に目を輝かせた。目的地に着くと目の前には長蛇の列である。食堂は2階と3階にあったのだが、行列は踊り場のある階段をぐるっと降りて一階の渡り廊下のようなところを渡り、建物の外の角を曲がったところから始まっていた。「うげぇ」としゃがみ込みたくなる私の横で、さっきまで私と一緒になってぶつくさ文句を言っていた従姉妹はるんるんで列に並んでいる。「食べたことないの?美味しいよ」語尾に♪が見えるくらいの浮かれようだ。ゆっくりと進む行列に、手遊びや周りにいる他人のおもしろいところ探しでクスクス笑って時間を潰しているうちに食堂が見えるところまで上がってきた。今では改修されて綺麗な内装になっているようであるが、当時は「壊れそう」が感想であった。ぎしぎしとしなる油でぎらつく床板、その上にぐらぐらと安定しない古い木製の机や椅子、食堂と呼ぶに相応しい清潔とはいえない雑多な空間、こんな小汚いボロボロのところで食事をするために小一時間も列に並んだのかと白目を剥きそうになった。

やっと席が空いたと、その時一緒にいた全員が肩を寄せ合うように座るくらいの小さなテーブルに案内され、周囲のワクワクと反対に私は不信感を強めていた。母がメニューをさらりとみて、隣の叔母に意見を聞き、着席からずっと横で注文を待っていた店員にガーと注文内容を伝えた。普通のレストランより全てがスピーディで、私たちの注文内容は鋭く大きな声で厨房へと伝えられた。ここまで仔細に遠い日の記憶を記しているにもかかわらず、実は母の注文したものを全然覚えていない。上海の外食ではそれが常識なので、冷菜数種とか青菜の塩炒めなどの副菜がオーダーされたのではないかと推測するのだけど、本当にここだけするっと記憶から抜けている。だって初めての小籠包はそれだけ強烈に美味しかったのだ。

小籠、つまりは小さな蒸籠数段に入ったそれらがテーブルに並べられたところから、私の回顧は再開する。一段目の蓋が外され、もわっと蒸気が上がる。その下からなんとも愛らしいフニャりとしていて、でも先っぽがツンと立っているツヤツヤの皮に包まれたものが数個現れた。不機嫌と空腹の限界を超えていたせいか、初めて食べるものなのに、私はいきなり箸でそれをつまみあげ、香醋に軽くひたし、口に放り込んで悶絶した。熱い。元々猫舌の私はしたたかに口内を火傷し、でもハフハフするうちにやっとなんとか味わえるくらいの温度になると口いっぱいにうまみが広がる。それから横目で私を観ていた従姉妹が半分失笑しながら小籠包の正当な食べ方を伝授してくれた。まずは小籠包の皮を破らないようにそぅと箸でつまみあげ(ここで皮が破れてしまうとその場で見守る全員がもったいなさげな声を出す)、それをレンゲにのせ、前歯でちょびっとだけ下の方の皮を噛み取って、そこから空気を吹き入れて温度を下げる、そのまま開けた穴から中のお汁をすすり、それからやっとお酢をつけて、生姜の千切りをちょろっと乗せて、全部を一気に口に入れて味わうのである。肉汁、豚肉の旨味、魔法のような調味料の配分、皮の薄いながらも弾力のある質感、香醋にすごく合う。さあ、二段目が開けられ、そちらは上海蟹の身とカニ味噌入小籠包である。あまりに美味しすぎて私は夢中で食べ続けた。肉まんくらいの巨大な小籠包にストローがぶっ刺さっている視覚的インパクトが強くて記憶された大籠包もテーブルに運ばれてきたが、私はそちらには一切意識を向けずに小籠包を食べ続け、その日に「好物」認定をした。

小籠包は上海発祥だという。だけれど、今私は台湾物に浮気をしている。というか、そちらの方がもう好きだ。違いは大きさと皮の厚さ。台湾出身の小龍包の方が小ぶりで皮がより薄い。しかもこちらは日本にいても至る所に鼎泰豊があるのでいつでも食べられる。上海に2年間住んだ時も、初恋の元へは通わず、鼎泰豊へ足繁く通い詰めていた。しかも上海の鼎泰豊は日本のお店とはメニューの内容も一皿の量も大分違う。食材の手に入りやすさが関係しているのだろうけれど、子供たちの好物で、上海店で頻繁に頼んでいたものがこちらにはないので残念であるが、それは今回のお話とは関係がないのでここでは割愛する。

さて、この初体験のとき、母の出張に伴って、私にとっては数年ぶりの上海帰郷であった。当時、私は今考えても赤面してしまうほどに、テレビっ子で日本のポップス文化至上主義、中高一貫校、女子校生という閉塞的な世界観に自らをうずめこんでみたものの、結局馴染めず反発し、自分のアイデンティさえもこれでもかと否定してかかっていたそんな時代である。

数年で上海は大きく、大きく変わっていた。市街地自体が広がり、高速道路がくねくねと街を貫き、自転車の代わりに自動車が縦横無尽に走るようになって、上海タワーは完成し、高層ビルの建設用クレーンが至る所に連なり、ロシア風のゴテゴテした様式で住宅や内装は飾られ、日本のアニメや台湾のドラマが大いに流行し、祖父母宅で同居をしていた従姉妹家族は市内に自宅を構えて引っ越し、強く優しく守護の象徴であった祖父は糖尿病を患っていた。移民の子に付随する思春期特有の母国への嫌厭と、変わってしまった故郷の風景へのうら寂しさ、そして祖父母親戚の前では未だ昔の『素直な私』でありたい上っ面の良さやらが入り混じって、この時の私の言動は安定しているとは言い難かった。

祖父母の家で過ごしたり、従姉妹と馴染みのある場所へ遊びに行ったりしているうちは良いのだけれど、母の市場調査に伴って新しくできた商業施設などにいくと嫌悪感があからさまに顔面に登って、母が故郷の発展ぶりが自慢でならないような言動をすればするほど、「こんなものちっともすごくない、全部日本の猿真似じゃないか」などと言っては態度を腰高にしていた。今タイムスリップして後ろ頭をスパーンと叩いてやりたくなるほどに、不遜で恥ずかしい。わざわざ飛行機に乗せて海外に連れて行った娘にこんな態度を取られたら、私はきっと激怒するであろう。

しかし、『私の上海』は私の錨だったのだ。自分が変わってゆく、捨ててはいけないものまでかなぐり捨てて、突き動かされるように変わってゆく。大事なものごとを軽視し、他人の価値観に自分を馴染ませようと擦り寄っていくが、それは表層を滑るのみで、すべてどこか他人事、だからその価値観からも拒絶されたように感じていた。残るのは好きなものを捨てた後の空虚さだけである。それだから、どんなに母国を蔑視してみても、幼児時代、子供時代の夏休みを過ごした大好きな祖父母、従姉妹家族がいる『ふり返れば桃源郷』は、漂うような私を繋ぎ止めてくれていたのだ。だけれど、その『上海』の変化が自分の変化以上に苛烈であることを目の当たりにし、そしてそれは受け入れ難いことだった。

あの時母は感じていたのかもしれない、私の不安定さの要因を。だから私に小籠包を食べさせた。棘の長くて乾いて固いサボテンのような私の心に小籠包を与えてくれたのかもしれない。人の気持ちに鈍感な挙動をしがちな彼女がそれを感じていたのだとしたら、あの頃の私は幾分救われる。

まあ、小籠包が食べたかっただけかもしれないけれど。


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