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母親になって

近所の商店街にある小さな書店に、子供のお迎えまでの隙間時間に立ち寄った。美しい本を多く扱う、胸がときめく場所で、つ、つ、つ、と棚を眺めていると胸をギュッと掴まれるタイトルが目に飛び込んだ。

母親になって後悔してる

このロマンチックな本屋に似つかわしくない、弾丸のようなタイトルにギクリとしつつ、目を逸らしてきた部分に光を当てられたような怖いもの見たさで、パラパラと頁を括った。女性が子供を持たないことを社会から糾弾されるように感じるいき苦しさがある。逆に、社会的神話のような慈愛に満ちた母親像と自分とのギャップに多くの母親が悩んだり苦しんだりしている。しかし、後悔を口にすることはタブーなのである。序文に書いてある内容で私の興味の窓は完全に開き、すぐにでも読破したい気持ちでカウンターに向かいかけて、本を書棚に戻した。

「こんなタイトルの本が家にあって欲しくない。」

そう瞬時に思った。10歳になった娘にこのタイトルを見られたらどう思うだろう。夫にも見られたくない。そんなことを考えて購入を踏みとどまったのである。死角だったはずの心の隅っこを自ら曝け出すようで空恐ろしいし、私は子供を産んだことを1ミリも後悔していない姿で、居続けなくてはいけないと思った。まさしくこの本に書いてあるような理由で私はこの本を買わなかった。

でもなぜ母親は、母親になったことを後悔してはいけないのか?その職に就きながら、仕事選びで失敗したと後悔してブーブー言う人はいっぱいいるじゃないか。「教師になって後悔している」はタブーではないのか?後悔しながらも、子供を愛し、責務を全うしようと母親業に勤めていてはいけないのか?

私は不意に妊娠した。相手がこの人なら大丈夫と思えたから、両親が望んで全力でサポートすると太鼓判を押したから、子供を育てられる家があったから、仕事も軌道に乗る前だったから、子供を産んだ。しかし、柔らかい笑顔で自分のお腹を撫でまわし、ベビーに話しかける慈愛の妊婦像、私はそうではなかった。むしろ日々変わっていく自分の体に嫌悪感をいだいていた。子供を産み落として初めて、生きてきた中で感じたこともないような強い愛情がマグマのように湧き出したが、それはホルモンの為せる技だ。マタニティーブルーとか、産後うつとか、糞食らえだ。カテゴリーにはめ込んで勝手に安心するな。時間、空間、行動、趣味趣向の自由が制限され、それまで築き上げた人格を一旦自ら放棄し、みな母親になる。大抵の人はそこから「正しい母親」と自分の狭間で努力し続けている。「後悔している」と口に出せないし、そんなことを思っても思ったそばから自分で隠滅する。なぜなら、それを口に出した瞬間に、それまで保ってきた何かがガラガラと崩れてしまうんじゃないかと、恐ろしいのだ。

中高時代の友人が2児の母になった。2度とも不妊治療を受けての出産である。彼女は学生時代から、やさしく、センスが良く、真面目で、器用で、だけど変に目立つこともなく、皆に好かれていた。大学も指定校推薦で一足先に受験を終え、中堅の企業に就職し、適齢で大学時代から付き合っていた恋人と結ばれ、男の子2人の母親になった。仕事にも復帰して、時短勤務でキャリアもキープしている。全てが円満で、嫌味なところが全くない。ふわっとした笑顔で周りを包みこむような人だ。数年前、子持ちの級友数人と久々に会い、楽しくランチをした帰りに、彼女がポツリとこういった。

「時々叫び出したくなる。わあーって全部置いてどこかに行きたくなる」

確かその直前の会話は茹でたてのブロッコリーは美味しいよね、みたいな内容であったと思う。そこから夕飯の支度を連想し、急に現実に引き戻されたのだろう。彼女がそれを言ったことの落差に心底びっくりした私は、今ならもっと他に言えることも思いつくのに、その時はなんとか取り直して、深入りすまいと無理やり話題を変えてしまった。「後悔している」と言えない空気感を私が作ってしまったことになる。別に母親をやめたいと言っている訳ではないし、絶対に辞めたくはないだろう。子供は大好きだ。でも、ただただ逃げ場がないのである。

「ママになって変わったね」と私は比較的早くに子供を産んだので、友人達にそれを言われることがコンプレックスであった。そう思われないように必死で努めたりした。今その友人達が次々に母親になっていく、そして如実に変わっていく。母親である前にあったはずの、自分という人格を自分で抑え込んで、「正しい母」であろうと努力している。子供を中心とした母親ボキャブラリーの中で会話をしたまま、「後悔している」なんて言える気配はない。どんなに仲が良くとも、夫や日常の愚痴は言えても、「母親になって後悔してる」と言った人は一人もいない、私も言わないだろう。未だに言えないのだ。

こんなふう書いてきたが、私だって、娘達には子どもを持ってもらいたいなと思っている。いつかは孫ができるんだろうなと思って生きている。決めるのは彼女達だし、これはとんだダブルスタンダードにも思えるけれど、子どもを持つこと、母親になること自体に問題があるのではないのだ。しかし、どんな決断、どんな行動をしたって多少は「後悔」することもあるはずなのに、こと「母親」に関してはそれを発言する、考える、感じることですら悪のレッテルが貼られるのはおかしいのではないかと思う。私がおばあちゃんになる頃には、娘達が「あーあ、母親向いてなーい」と気軽に言える環境ならいいなと思う。自分らしさを保ったまま、母親になれたらいいなと願う。


冒頭の本ですが、この記事を書きかながら電子書籍で購入しました。完読した際には、また感想を書かせてくださいね。


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