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土用⑤

父の話をしたので母の話もしましょう…
2人は小中学校の幼馴染でした。
母の妹が父と同級生でお互いの事はよく知った間柄でした。

ガチの深層の令嬢と3代続く八百屋の息子で、父は肝硬変の父親に代わって中学生の頃から朝中央市場に行って買い付けして準備しながら県下1、2の高校へ行った秀才ですが
大学には行かせてもらえなかったので、母が大学時代に付き合いはいじめ結婚を考えた時にそれがネックで結婚は許してもらえなかったそうです。もう1人高校まで幼馴染の男性がいて母にプロポーズされたそうですが、その時には結婚が決まっていて、その方はその後自殺されたそうです。私は全然知らなかったのだけれど、その人は子供の頃から魚を買いに行っていた魚屋さんの息子さんでした。お父様は魚屋の店主だけれど、俳句の世界ではそこそこ有名な人だったそうです。そんな事を知ったのは中学生くらい頃です。
ある日病院の帰りに花を持って寄った時におじさんが
「あんたが嫁さんになってくれてたらなぁ・・・」と母に言った言葉が気になってその事実を知りました。
花は毎年命日に贈っていた様で、その時まで時々花を買って届ける意味がわかりませんでした。

母は神戸の女子大で大学祭の運営委員長をしたりするぐらい活動的な人で
学生運動がまだ激しい時だったので「反体制」とか割と激しかった様です。
国文科に入って徐々に思想が変わり、父とは仕事や学業、親の反対で会う時間なかなかなくて、家庭教師している生徒の家の行き帰りに会って万葉集の和歌を交換しあってました。
因みに、その手紙は離婚する時に処分してしまいましたが手紙箱に詰め詰めに入ってました。
半ば強引に結婚式を挙げて私が生まれるまで親とは険悪なムードだった様ですが
私が生まれてからは円満になった様です。
いつも手を繋いで一緒に眠る両親、お互いを名前で呼ぶ2人を見て
私の理想は両親の様な結婚でした。しかしバブル景気に踊らされていくうちに
互いの心が離れていき最終的に離婚します。

母が乳がんになった時父は愛人や飲み屋に足繁く通い
母の病院へは行ってませんでした。
父が入院した際は母は足繁く通いました。
なんだかんだで、父の心を取り戻したくて母は必死だったのでしょう
そんな母に手をあげ始めて、私や妹まで怪我するようになってきたので
離婚を勧めました。

束縛が強く自分勝手な父からようやく自由になった母は
干支が1つ回るまで自由に生きました。
でも最後を悟った時にもう一度万葉集の本を手元に置いてベッドの上て読み返し
意識がなくなる前日に、お父さんが迎えにきてくれた。と父の名前を呼びました。
既に脳まで癌に侵されていたので幻視かもしれないですが、それでも会いたかった人なのでしょう。

母は辛酉の人で父が丙申でも戊申でも2人の関係は最悪という程ではないのです。
それが時のイタズラで運命を変えてしまったのならなんと残酷なんでしょう。
好きが過ぎれば馴れ合いや甘えから相手に求める物が大きくなるし
受け入れてくれるだろうと言うエゴも出てきます。
両親の関係を見ながら2人は決して嫌いじゃなかったのに
一つのボタンの掛け違いかから全てが不毛になってしまった気がします。
でも、私の記憶には2人が手を繋ぎながら眠っていた記憶が焼き付いています。

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